近年の主な出演作品に、TBS「結婚式の前日に」、舞台「いつも心に太陽を」(主演)、「真田十勇士」(’13年,’15年)、ブロードウェイミュージカル「アダムスファミリー」など。 風の陣 第五巻 【烈心篇】 高橋克彦の陸奥三部作4部作ともいわれる蝦夷の歴史に関わる代表作のなかで時代的には、それらの端緒を開くのがこの「風の陣」五巻。時は天平時代。 』歴史群像シリーズ 学研, 『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』 春日太一 著 文藝春秋 2013年11月発行, 『日本映画は生きている』第2巻「映画史を見直す」〜チャンバラにおける身体表現の変容〜 中部大学人文学部准教授 小川順子著 岩波書店 2010年8月発行, 『仁義なき日本沈没〜東宝VS東映の戦後サバイバル〜』春日太一著 新潮社 2012年3月発行, 『嵐寛寿郎と100人のスター〜女優編〜』荷村寛夫 著 ワイズ出版 1997年4月発行, 『映画100物語〜日本映画編〜1921-1995』岡野敏之 編集 読売新聞社 1995年8月発行, 『NHK大河ドラマ50作パーフェクトガイド』NHKサービスセンター 2010年12月発行. var today=new Date(); document.getElementById("copy_year").innerHTML = today.getFullYear(). 「熱海殺人事件」などのつかこうへい作品等で骨太な芝居を見せる他、佐々部清監督ドラマ「痕跡や」でも主演を務めた。 Copyright 2020 BELCY All Rights Reserved. この記事では、時代劇映画の名作などのおすすめランキングを19選ご紹介します。江戸時代が舞台のものが多いので、難しいと思っていませんか?時代劇は、コメディもたくさんあり、家族みんなで楽しめるジャンルでもあります。気になった方は、ぜひ見てみてくださいね!, 時代劇の映画は、男性が主役のことがほとんどです。昔の日本では、男性が仕事などをして、女性は家事をするというのが一般的でした。自分の心情と身分などに揺れる男心は、昔の時代では当たり前だったのでしょう。そういう細かい部分を映画で描くことで、当時の男性たちのリアルを浮かび上がらせようとしたのですね。, また、時代劇映画は、圧倒的に江戸時代が舞台の映画が多いです。江戸時代は、武士が活躍し街が急速に発展した時代のため、さまざまなドラマを作りやすいのです。ペリー来航など、日本の歴史において非常に重要な出来事も数多く起きたため、非常に魅力的な時代だと言えます。時代劇の舞台をチェックしてみてください。, U-NEXTでは洋画作品を豊富に配信!映画だけでなく、ドラマやアニメ、電子書籍なども取り扱われているのが◎ 本記事で紹介するおすすめ映画も豊富に配信されています。今なら、見放題作品が31日間無料で視聴できますのでこの機会に無料体験してみてはいかがでしょうか?, 時代劇映画のおすすめランキング第19位は、猫忍です。この時代劇映画は、昨年に公開された新しい作品となっています。テレビドラマが人気を博し、大野拓朗さんや柄本明さんといった人気俳優が共演するコメディ映画も上映されました。タイトルから分かるように、歴史好きのみならず、猫好きもハマる面白い時代劇ですよ!, 忍者である陽炎太は、忍び込んだ屋敷で生き別れの父上とそっくりな猫に遭遇する。その猫が化けた父だと勘違いした陽炎太は、父を元の人間へ戻してやるため、術が書かれた「秘伝の書」を探す旅へ出る。, 時代劇映画のおすすめランキング第18位は、必死剣鳥刺しです。この作品は、2010年に公開された時代劇アクション映画となっています。豊川悦司さんや池脇千鶴さんなど、演技派俳優が共演したことや、変わったタイトルなどで話題となりました。カナダのモントリオール世界映画祭にも出展された、注目の映画です。, 江戸時代、海坂藩の兼見は、女性がらみの問題で問題を起こした藩主の前で、その女性を刺殺する。藩主は公正せず、自由気ままな政策を続け、農民も我慢の限界に達していた。女性を刺殺し斬首を覚悟していた兼見だが、殿のそばに仕えるという意外な頼みごとをされる。そしてある日、藩主である右京が謀反を起こす。, 時代劇映画のおすすめランキング第17位は、駆け込み女と駆け出し男です。この時代劇映画は、2015年に公開された作品で、大泉洋さんや戸田恵梨香さん、満島ひかりさんなどの豪華キャストが集結したことで話題となりました。全国でヒットし、上映映画館がどんどん増えていきました。女性を応援したくなる映画です。, 江戸時代、幕府公認の縁切寺の「東慶寺」で女性から聞き取り調査を行う作家志望の信次郎は、連日さまざまな訳あり女から駆け込んできた理由を聞いていた。いろんな事情をかかえた女性たちの悩みを解決するため、信次郎は人生の再スタートを後押しする。, また、こちらの記事では、泣きたい時に号泣できる!泣ける映画の邦画編人気ランキング19選などについて、詳しく紹介されています。ストレスが溜まってしまったとき、あなたはどうやって解消していますか?実は、映画を見て号泣することは、ストレス発散にもつながります!気になった方は、ぜひ見てみてくださいね!, 時代劇映画のおすすめランキング第16位は、忍びの国です。この時代劇映画は、2017年に公開された映画です。嵐の大野智さんが主演を務め、殺陣をはじめとしたアクションシーンが特徴の映画ですよ!原作小説は非常に密度が濃く、映画も構成にこだわった迫力ある作品となっています。ぜひ見てみてくださいね!, 天正4年、北畠信雄は家臣を引き連れ、因縁である義父を討つ。同じ時期、伊賀国では忍びである無門が次男の次郎兵衛を討っていた。伊賀国は、話し合いの末に織田家の軍門に下ることに決めたが、父に反発していた平兵衛が伊賀攻めを進言してしまう。, 時代劇映画のおすすめランキング第15位は、超高速!参勤交代です。この時代劇映画は、2014年に公開されたコメディ映画です。参勤交代という、誰もが知っている題材を扱い、2016年には続編が上映されるなど、幅広い年代から人気を博しています。人気俳優である佐々木蔵之介さんが主演を務めました。, 江戸時代、江戸での務めを終えた内藤は、江戸幕府老中である松平から「5日間のうちに参勤せよ」という命令を受けてしまう。自分たち湯長谷藩の所有している金山の調査に疑いがかかっているためだと言う。しかし、湯長谷藩は飢餓のため参勤交代の資金がなかった。, 時代劇映画のおすすめランキング第14位は、椿三十郎です。この時代劇映画は、巨匠・黒澤明監督による作品です。1962年に公開された古い映画ですが、時代劇ランキングには必ず名前が挙がる名作となっています。一度見てみてはいかがでしょうか?, とある若侍の一団は、次席家老の黒藤と竹林という男の汚職を告発しようとしていた。しかし、それを家老である睦田へ届けたところ、相手にされなかったという出来事があった。すると、社殿の奥から謎の老人が現れ、敵の黒幕を予想するのだった。, また、こちらの記事では、胸キュン間違いなしんお、邦画の恋愛映画のおすすめランキング19選などについて、詳しく紹介されています。恋愛映画を見ると、「恋がしたい!」と思わず考えてしまいますよね。人気俳優が主演を務めているものばかりなので、おすすめです。気になった方は、ぜひ記事を見てみてくださいね!, 時代劇映画のおすすめランキング第13位は、さや侍です。この時代劇映画は、2011年に公開された作品です。人気お笑いコンビのダウンタウン・松本人志さんが監督を務めた作品で、一般人を主演に抜擢したことでも話題となりました。笑って泣ける時代劇映画を探しているという方は、元気が出るのでおすすめしますよ!, 時は江戸時代。野見勘三郎は、脱糞が原因で賞金首となってしまい、幼い娘・たえと共に逃亡生活を送っていた。そんなある日、二人は野見を追いかけていた多幸藩に捕らえられてしまった。変わり者の藩主は、野見に「若君に一日一芸を披露する」という条件で無罪にするというのだった。, 時代劇映画のおすすめランキング第12位は、殿、利息でござる!です。この時代劇映画は、2016年に公開されたコメディ作品です。阿部サダヲさん、妻夫木聡さんをはじめとした、豪華キャストが演じる個性的な登場人物たちに大注目ですよ!, 1766年、仙台の宿場町である吉岡宿は、藩の管轄から外れているため、助成金が貰えない状況だった。そのため、物資の輸送を行うものたちは資金がなく、困窮していた。このような村人の有様を見た酒屋の店主は、訴状を渡そうとするのだった。, 時代劇映画のおすすめランキング第11位は、雷桜です。この映画は、身分の違う男女の恋愛を描いた時代劇です。主演を人気女優である蒼井優さん、岡田将生さんが務めています。タイトルにもあるように、綺麗な桜の場面が印象的の、切ないラブストーリーです。, 徳川の家に生まれた清水は、母親がいないため、愛を知らずに育ってきた。ある日、療養のために出かけた村で、雷という自由な女性に出会う。, また、こちらの記事では、日本の怖いホラー映画のおすすめ10選などについて、詳しく紹介されています。日本のホラー映画は、海外のホラーよりもストーリーや描写が細かく、思わず背筋が凍ってしまうようなシーンもありますよね。人気の俳優や女優が出ているものなど、気になった方は、ぜひ記事を見てみてくださいね!, 時代劇映画のおすすめランキング第10位は、武士の家計簿です。この映画は有名なので、聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。江戸時代、借金返済のために節約をする武士を描いた作品です。その姿が現代人にも通づるところがあり、思わず心が温かくなってしまう作品です。, 江戸時代、加賀藩の猪山家は、藩の財政管理を任されていた。8代目である猪山直之は、膨大な借金返済のため、入払帳をつける習慣を始める。お金の出費が少なくなり、能力を認められた直之だったが、幕末維新が起こってしまう。, 時代劇映画のおすすめランキング第9位は、のぼうの城です。この映画は、2012年に公開された作品で、原作の小説はベストセラーとなり大変人気があります。豊臣秀吉や石田三成など、誰もが知っている歴史上の人物を登場させ、その構成やストーリーから、にほんアカデミー賞では数々の賞を受賞しました。いかがですか?, 周囲を湖に囲まれた忍城には、でくのぼうを略した「のぼう様」の愛称で親しまれている領主・成田がいた。豊臣秀吉は、天下統一も間近と思われるほどに勢力を増していたが、それに対抗する北条が、各地の城主たちに籠城を命じる。忍城には、大軍を引き連れた石田三成が迫ってきていた。, 時代劇映画のおすすめランキング第8位は、信長協奏曲です。この映画は、ドラマから人気を博し、映画も大ヒットしましたね。江戸時代へタイムスリップしてしまうというありがちな設定を、巧みなストーリーや個性的なキャラクターで唯一無二のものへと仕上げました。誰でも楽しめる名作なので、おすすめですよ!, どこにでもいる平凡な高校生・サブローは、ある日突然戦国時代へタイムスリップしてしまう。サブローは、本物の織田信長に瓜二つだったため、周囲の人から勘違いをされてしまう。サブローには、教科書に載っているような暗殺未遂や陰謀が次々と襲いかかる。, また、こちらの記事では、面白い洋画のおすすめ人気ランキングを19選ご紹介しています。面白くて評価が高い映画は、何度見ても「よく出来ているな」と唸ってしまいますよね。休日に、どっぷりと映画の世界へ浸ってみませんか?気になった方は、ぜひ見てみてくださいね!, 時代劇映画のおすすめランキング第7位は、十三人の刺客です。この映画は、2010年に公開された時代劇ですね。1963年に公開されたもののリメイク版となっていて、激しいアクションシーンや豪華俳優陣の共演で話題となりました。アメリカやイギリスでも公開され、ヒットした時代劇名作です。, 江戸時代後半、将軍の異母弟の松平は、暴力的な性格から、危険人物と囁かれていた。将軍の意により、松平にはお咎めなしとなったが、これは暗黙のうちに松平を討つ作戦であった。御目付役の新左衛門は、松平を討つべく仲間を集める。, 時代劇映画のおすすめランキング第6位は、清洲会議です。この映画は、2013年に人気監督である三谷幸喜さん製作のもと、映画化された作品です。実際にあった出来事がモデルとなっていて、戦うような武士ではなく、心理戦を繰り広げ、主導権を争う武士たちを描いています。笑えるシーンもかなりあるのでおすすめです。, 本能寺の変により、織田信長が亡くなった。信長が残した領地や後継者を決めるため、柴田勝家や羽柴秀吉などの勢力を持った者たちが一堂に会した。そこでは、お互いの心を探り合うような果てしなき心理戦の始まりでもあった。, 時代劇映画のおすすめランキング第5位は、るろうに剣心です。この映画は、人気漫画を実写化した作品で、再現率の高いキャストや本格的なアクションシーンなどが評価された時代劇アクションです。劇場版は現時点で3作品公開されており、未だなお人気の高い名作となっています。, 幕末に名を轟かせた、伝説の殺し屋・緋村剣心。10年後、時代は明治へと移り変わり、武士の力も弱まっていった。流派に問題があるとされ、門下生がいなくなってしまった師範代の少女、神谷薫は、トラブルを剣心に助けられる。, 時代劇映画のおすすめランキング第4位は、たぞがれ清兵衛です。この時代劇映画は、藤沢周平さんの同名小説を元にした作品です。大御所監督である、山田洋次さんの元で製作されました。ストーリーが高い評価を受けた名作ですね。, 時は幕末。海坂藩の御蔵役をしている井口清兵衛は、寄り道や上司からの誘いにも乗らず、まっすぐ家へ帰る毎日を送っていた。家には老母と二人の娘が待っており、家事や掃除などをしなくてはならないからだ。同僚たちは、「たそがれ清兵衛」と馬鹿にする。, 時代劇映画のおすすめランキング第3位は、ラストサムライです。この映画は、ハリウッド作品にも関わらず、日本を舞台に侍を描いていることから、世界的にヒットしました。主演を人気俳優であるトム・クルーズが務めています。, 時代江戸から明治へと移り変わり、さまざまなものが変化するなか、侍の地位も大きく変わっていった。南北戦争で活躍したオールグレンは、酒浸りの生活を送っていたが、大村という実業家に教授職として日本へ招待される。, 時代劇映画のおすすめランキング第2位は、武士の一分です。この映画は、2006年に公開された作品です。失明してしまった武士という難しい役柄を、木村拓哉さんが演じています。切ないストーリーが話題となり、時代劇映画の名作として知られています。, 幕末時代の海坂藩の藩主の毒味役をしている三村は、つぶ貝の毒により失明してしまう。道場を開くことを密かに夢見ていた彼は、失明のショックで妻へも当たり散らしてしまう。そんな中、妻がほかの男と一緒なのを見たという話を聞く。, 時代劇映画のおすすめランキング第1位は、七人の侍です。この作品は、1954年に、黒澤明監督により製作された時代劇です。時代劇映画の名作と名高い作品で、身分の違いにぶつかり合いながらも協力し合う武士たちの姿を描いています。, 戦国時代の末期、とある山の中の村では、武士が盗賊化した「野武士」たちの襲撃におびえていた。作物が実るころ、野武士たちが村へ来て暴れることを知っていたからだ。そこで4人の百姓は、力を求め宿場町へ繰り出す。, いかがだったでしょうか?今回は、時代劇映画のおすすめランキングを19選詳しく紹介させていただきました。見たいものや気になったものはありましたか?時代劇は、アクションシーンがかっこよくて、まっすぐな武士たちの心も感心しますよね。ぜひこの機会に見てみてはいかがでしょうか?. 連絡先:0235-29-1880 参考文献:■『鶴岡市立藤沢周平記念館図録』(鶴岡市立藤沢周平記念館) ■『海坂藩の面影』(鶴岡市観光連盟) 『風』(かぜ)は、TBSと松竹が制作し、TBS系列で放映された時代劇。モノクロ作品。1967年10月4日から1968年9月11日まで毎週水曜午後8時からの1時間枠で全41回が放送された。うち、第10話はフィルム原版の所在不明のため欠番扱い。冒頭に「時代活劇シリーズ」と銘打たれていた。, 時は天保年間、老中水野忠邦(池部良)による改革が推進されるが、世は混迷の度を深めていた。ここに快男児・風の新十郎(栗塚旭)が現れ、様々なトラブルに首を突っ込んでは次々と難題を処理してゆく。新十郎は水野に共感し、様々な場面で彼をサポートする働きをするが、手下にはならず対等の立場から協力していく。, 2000年12月に松竹ホームビデオより第1話から第3話までを収録したビデオが発売され、2004年10月には第10話と第25話を除く39話分が松竹よりDVD-BOXとして発売された。第10話と第25話はフィルム原版の所在不明により欠番とされていたが、2011年に第25話が発見されたとして時代劇専門チャンネルで放送されている。ただし、完全な形で発見されたわけではなく、一部映像が欠損し音声のみの箇所がある。このため、発見後(2011年以降)の放送時には、映像が欠損した部分の場面の状況や台詞をテロップで説明していた。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=風_(テレビドラマ)&oldid=79117363, 顔合わせのとき、主役に挨拶をしたら、オネエ言葉を使い、シナシナっとした態度でテレビの印象と全く違う為、「ふざけるな」と注意した。だが、スタッフに「この人はこれが普通なんです」と言われて呆れた、と実相寺昭雄が後に語っている。, オープニングは前期と後期で二種類あり、前期は新十郎が様々な扮装をした後に二人の侍と斬り合うものであり、後期は着流しの右肩に入った「風」の文字のアップから入り複数名の侍と斬り合うものである。. ■『蟬しぐれ』『風の果て』『霧の果て 神谷玄次郎捕物控』『よろずや平四郎活人剣』『一茶』『漆の実のみのる国』『半生の記』『花のあと』『三屋清左衛門残日録』、以上(文春文庫刊) 2011年から、オリジナル本格時代劇を企画・制作しつづける時代劇専門チャンネルが、今年は4人の名優を主役に、放送はBSスカパー!・時代劇専門チャンネル・スカパー!4K 総合・BSフジと、各局を横断するメディアミックス・コラボレーションを実現。制作は松竹・東映の2社にわたって時代劇の粋を集め、長時間スペシャルと一時間ものを組み合わせた1話完結の4作品シリーズとしてお届けする大型企画です。下級武士を題材にした武家もの、江戸の町民のひたむきな人生を描いた市井もの、実在した人物や出来事に深く迫る伝記小説など、数多くの時代小説を残し、時代を超えて今もなお愛され続ける藤沢周平の世界。誰もがその魅力にふれ、時代劇そのものの素晴らしさを味わっていただけるよう、これまでにない時代劇の制作に挑戦していきます。, ’32年、東京都出身。小林正樹監督「人間の條件」(’59年)、黒澤明監督「乱」(’85年)、さらに、成瀬巳喜男、岡本喜八、市川崑、五社英雄など名監督の作品に多数出演。アカデミー賞や世界三大映画祭での受賞も数多い。, ’92年、鹿児島県出身。杉田成道監督「最後の忠臣蔵」(2010年)でブルーリボン賞はじめ多くの新人賞を受賞。主な出演作に細田守監督「サマーウォーズ」(2009年:声)、樋口真嗣監督「進撃の巨人」(2015年)など。主演作であるハン・サンヒ監督の日韓合作映画『絶壁の上のトランペット』が来春公開予定。, ’88年、大阪府出身。仲代達矢と共演した映画「春との旅」(’10年)で毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞をはじめ多くの賞を獲得。主な出演作に映画「六月燈の三姉妹」(’14年)「しもつかれガール」(’14年)など。, ’76年、東京都出身。’95年、仲代達矢が主宰する無名塾に入塾。舞台「ロミオとジュリエット」(’13~’14年)「刃、刃、刃!」(’11年)などに出演。, ’88年、神奈川県出身。舞台、映画、ドラマと幅広く活躍。 ●商品やサービスを紹介いたします記事の内容は、必ずしもそれらの効能・効果を保証するものではございません。. この記事では、時代劇映画の名作などのおすすめランキングを19選ご紹介します。江戸時代が舞台のものが多いので、難しいと思っていませんか?時代劇は、コメディもたくさんあり、家族みんなで楽しめるジャンルでもあります。気になった方は、ぜひ見てみてくださいね! 江戸時代に入ると内蔵助(くらのすけ)、源内(げんない)というような時代劇風の名前が流行します。それは一体なぜなのか?百官名と東百官とは?当サイトは戦国時代の古文書を丁寧に解読し、当時の人々の生き様をご紹介するサイトです。 ■『ふるさとへ廻る六部は』『時雨のあと』『驟り雨』、以上(新潮文庫刊). 時代劇(じだいげき)は、日本の演劇や映画、テレビドラマなどで現代劇と大別されるジャンルとして、主に明治維新以前の時代の日本を舞台とした作品の総称である[1][2]。, 時代劇というジャンルは、その作品の数から、主に平安時代から明治維新までを扱った作品が「時代劇」とも解釈されている。しかしあくまで解釈であって、厳密に定義があるわけではない。奈良時代以前の古代も含まれるという解釈も当然存在する[注釈 1]。時代劇映画をさして「明治維新の頃より以前の時代を扱った劇映画の呼称で、現代劇に対するジャンルとして多様な広がりを持っている」[3]とするもの、また「髷(マゲ)を結んだ人物が主な登場人物であれば全て時代劇映画と定義する」[4]とするもの、など解釈は多様である。, 時代劇は一方でチャンバラとも呼ばれる。これはクライマックスに剣戟シーンがある時代劇を指し、時代劇の中のサブジャンルでもあり、時代劇が即チャンバラではない。語源は新国劇からの剣劇[5]の影響を受けた剣戟映画で、立ち回り(殺陣)で両者の刀がぶつかった時に、刀の発する音を擬音で「ちゃんちゃんばらばら」と表現したことからそれを略して使われた言葉である[6]。, またこれとは別に時代劇は俗に髷物(まげもの)、丁髷物(ちょんまげもの)とも言われ[2]、英語では「Samurai cinema」「Samurai film」あるいは「Samurai drama」[注釈 2]と表記されている[注釈 3]。, 時代劇に対して「歴史劇(史劇)」というものも存在するが、フィクションに近いかノンフィクションに近いかで区別する時代小説と歴史小説とは違い、日本国内のものを「時代劇」、日本以外のものを「歴史劇」或いは「史劇」と呼び分けている。, 時代劇は、実際にあった歴史上の事件や歴史に残る人物を登場させることも多いが、登場する人物像を始め、その時代の慣習、風俗、効果音、台詞などが大胆にフィクション化され、その時代劇が制作された年代の大衆に受け入れやすいようになっている。, 古い時代劇では、細かい所作や口上は歌舞伎の影響が強く、前近代の身分差別や女性差別を反映した描写も多かったのだが、時代の推移によって、現代の観客に違和感を与えないようにストーリーの展開が変更され[注釈 4]、演出も現代劇に近づいていくのは避けられなかった。どの時代劇でも、敢えて時代考証を無視している部分が多かれ少なかれあり、登場人物の性格や考え方も近現代の価値観に合致するような解釈や改変が施されることがほとんどである。, 一般論として、時代劇で描かれる歴史はあくまでフィクションであり、同じ題材を扱っていても全く解釈の異なる作品が生み出されている[注釈 5]。, 「時代劇」という用語はもともと活動写真から誕生した言葉であり、映画の歴史と共に歩んできたジャンルである。そして映画が活動写真と呼ばれていた最初の頃には、厳密に時代劇と呼ばれるジャンルは無かった。, 1899年(明治32年)に当時の歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の「紅葉狩」の演目を撮影した「紅葉狩」が現存する日本最古の映画として一部フィルムが残っているが、これは映画興行を目的としたものではなく、あくまで記録として残されたものである[7][注釈 6]。そして映画興行の目的で撮影された最初の時代劇映画は1908年(明治41年)に牧野省三(後のマキノ省三)が製作した『本能寺合戦』をもって嚆矢とするものである。ただしこの初の時代劇は、当時は旧劇と呼ばれていた[8]。, 明治から大正時代の半ば過ぎまでの時代物全般は旧劇であった。講談・歌舞伎からの題材が多く、人物造形・衣装・化粧・演技・立ち回り・女形など、舞台の名残を強く留め、声色弁士と邦楽器による鳴り物・囃子の伴奏が多かったと言われる[9]。, 1920年代に入った頃に当時「映画劇」と呼ばれる日本映画の革新運動が起こり、欧米を模範にシナリオの重視、映画技法の活用と表現の工夫、弁士に依存しない字幕の利用、そして女優の採用などこの時期までの活動写真とは違う、撮影や編集までの映画全般に及ぶ内容の新しさを求めた運動が起こった。それに刺激を受けた形で、旧劇映画についても「旧劇の映画劇化」「旧劇映画改造論」「映画劇的な旧劇」といった言葉が活動写真の論評に使われていた[10]。, 『本能寺合戦』以降に映画の題名と共に宣伝に使われた呼称を列挙すると、旧劇、革新旧派映画、純映画劇、新映画劇、旧派純映画劇、新時代劇および新時代映画、時代劇および時代映画となる[11]。革新旧派映画は旧劇様式ではあるがロケ撮影を生かした自然描写、細かいカット割りがあり、しかし女形を採用していた。映画劇は欧米風の映画様式に近づけたもので、脚本と撮影技法を重視し字幕を使い、そして女優を採用した。純映画劇も新映画劇も同じで、マキノ省三監督の『実録忠臣蔵』は新映画劇と呼ばれたが女形の採用は残っていた。旧劇をいくらかでも映画劇に近づけたものだが、女優を採用したのは旧派純映画劇であった。そして旧劇の映画劇化をさらに進めたのが新時代劇および新時代映画と呼ばれたもので、新しい解釈、新しい視点を入れて、演技も新劇系を導入し、女優を採用している[12]。, 旧劇映画の芝居臭さ、荒唐無稽の非現実性、女優不在の不自然さに対して、やがてそれらに対して作られていったのが「新時代劇」という呼称の新しい時代劇であった[13]。, 初めて時代劇と呼ばれた映画は、『本能寺合戦』から14年後の1922年(大正11年)に松竹蒲田撮影所で製作された『清水の次郎長』[注釈 7]の宣伝文句に「新時代劇」と名称がつけられていたことから、この映画が「時代劇」と称する映画の始まりであるとされている[注釈 8]。監督は野村芳亭(野村芳太郎監督の父)でこの映画の脚本を書いた伊藤大輔がそれまで「旧劇」と呼称されていた髷物映画を、宣伝に「新時代劇」と名付けて公開した。ゆえに「時代劇という呼称は松竹蒲田撮影所で製作された映画に冠されたものである」[14]、とされている。, ただ岩本憲児は著書『「時代映画」の誕生』の中で、1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて松竹キネマが「新時代劇」「新時代映画」と呼び、同時期のマキノ映画は「時代劇」「時代映画」と呼んでいたとして混在していたとしている。そして簡略化して「時代劇」が定着していったという[15]。, 歌舞伎の分野では、江戸時代よりも過去の時代を扱った演目を「時代物」(武士・貴族や僧侶など上層社会を題材としたもの)と呼び、江戸時代当時の現代劇を「世話物」と呼んでいた[16]。そして鶴屋南北らの「生世話」は庶民の暮らしを描いた江戸時代のものであるが、江戸時代の武士などの上層社会を題材とすることは不可能であったので、過去の時代に遡って武士・貴族・僧侶を描いて当代の現実を投影させていた。また過去の時代の庶民の姿を題材としたものを「時代世話」とも呼んでいた。もともと「時代物」という呼称は人形浄瑠璃から始まって歌舞伎へ移り、そこでの「時代」は江戸時代以前の奈良・平安・鎌倉・室町時代など7世紀から15世紀までが時代背景となっていた[17]。そして実は江戸時代の世相や世論が強く反映されて、人物造形も同時代的であり、故に今日でも時代劇は現代劇の裏返しという一面が大きい[18]。, 明治維新以降の日本の演劇は、1888年(明治21年)、自由党の壮士角藤定憲らが大阪で創始、川上音二郎らが発展させた壮士芝居を、1890年代後半(明治30年代)の日本のジャーナリズムが、歌舞伎との差別化を図るため、便宜的に歌舞伎を「旧派劇」、壮士芝居を「新派劇」[19]と呼び、さらに、1906年(明治39年)に坪内逍遥・島村抱月らの文芸協会、1909年(明治42年)に小山内薫・二代目市川左團次らの自由劇場のヨーロッパ近代劇の影響下にある演劇を、歌舞伎(旧派)、新派との差別化を図り、「新劇」と名乗った[20]。, そして坪内逍遥の門下生で新劇出身であった澤田正二郎が1917年(大正6年)に劇団「新国劇」[21]を結成し、歌舞伎から導入した「剣劇」[5]を発展させて、旧派でも新派でも新劇でもない大衆演劇を目指し人気を博した[注釈 9]。新国劇の主な演目である『月形半平太』と『国定忠治』は、好まれて映画化された。, このようにして、現在の「時代劇」と「現代劇」の二分法は、江戸時代の「時代物」と「世話物」を源流にもち、明治時代に演劇の発展とともに「旧劇」「新劇」とされ、大正時代に活動写真から「時代劇」「現代劇」と呼ばれたもので、このジャンルは、「明治維新以前の時代」を扱ったものである。ただしこの「時代劇」という呼び方は映画が発祥であり、そもそも多くの影響を受けていた歌舞伎では使われていない。そして新国劇や大衆演劇の世界でも芝居やチャンバラ劇という言葉が使われており、「時代劇」の歴史は主に映画とテレビの中で歩んだことになる。, 最初の時代劇は、前述の通り1908年(明治41年)に牧野省三(マキノ省三)が撮った京都の横田商会での当時「旧劇」と呼ばれた『本能寺合戦』である。この当時、横田商会を設立した横田永之助[注釈 10]が活動写真の製作に当たり、演劇関係者に協力を求めて京都西陣にあった千本座という芝居小屋を経営するマキノ省三に協力を依頼し、マキノが真如堂の境内で千本座の舞台で常打ち一座が演じていた狂言「本能寺合戦」の「森蘭丸奮戦の場」を野外で演じさせ、それをワンシーンワンカットで撮影する方法で作った活動写真が『本能寺合戦』であった[22]。マキノ省三は以後『本能寺合戦』を含めて6本ほど映画を作っているが興行成績は芳しいものでなく、ほどなくして映画から撤退を考え始めていたが、その翌年1909年(明治36年)に千本座座頭になっていた尾上松之助を主演にした映画が人気を呼んで、それ以降マキノ省三と尾上松之助は明治末から大正末まで時代劇映画の主流を歩むことになった[23]。, このように時代劇は歌舞伎の模倣から始まったものである[24]。この時代の活動写真はズームの技法もなく、旧派・旧劇と呼ばれた歌舞伎の演目芝居をそのまま屋外で撮ったフィルムを小屋で見せる、というのが上映形態であり、「檜舞台で芝居をする」歌舞伎役者は、活動写真の役者を「土の上で芝居をする連中」として「泥芝居」と蔑んだのであった[25]。ただし時代劇が歌舞伎の模倣から始まったのは事実だが、ここでいう歌舞伎とは「大歌舞伎」だけでなく、旅回り一座の劇や小さな小屋で上演される劇も明治期までは全て歌舞伎であった[26]。映画評論家の佐藤忠男は「京都で時代劇を作り始めていたのは、主に二流級の歌舞伎の人々であった」と述べている[27]。, 時代劇映画の最初のスターは、尾上松之助である。1909年(明治42年)にマキノ省三と組んで『碁盤忠信 源氏礎』[注釈 11]で映画デビューを果たし、以後1926年(大正15年)の『侠骨三日月』[注釈 12]まで17年間で1003本の時代劇映画に出演した。「目玉の松ちゃん」と愛称された彼は、歌舞伎や講談、立川文庫[注釈 13]のヒーローを繰り返し演じて日活の看板スターとして活躍した。特に特撮の先駆けであるトリック撮影による「忍術映画」が十八番であり、それは歌舞伎から題材を取り、「子ども相手の荒唐無稽なもの」[28]ではあったが、17年間にわたって時代劇の歴史に足跡を刻み、尾上松之助は映画を広く一般の人に広めるうえでは大きく貢献した[29]。しかし大正時代の末になると松之助の殺陣[注釈 14]に飽き、よりスピーディーでリアル、激しい調子を持った殺陣を観客が求めるようになっていった[30]。またこれとは別にほぼ同時期に澤村四郎五郎 が吉野二郎監督らの忍術映画で人気を呼び、200本を超す映画に出演している。, 1912年(大正元年)にそれまでの横田商会、福宝堂、M・パテー商会、吉沢商会の4つの映画会社が合同して「日本活動写真(株)」(日活)が誕生した。日本で初めての本格的な映画会社であった。日活は東京向島と京都二条城に撮影所を設け、向島は新派を京都二条では旧劇を製作することとなった[31]。そしてマキノ省三と尾上松之助は日活に所属した。これとは別に1914年(大正3年)に「天然色活動写真(株)」(天活)が設立されて吉野二郎と澤村四郎五郎らが所属した。, そして1920年(大正9年)頃までは旧派であった歌舞伎の影響下にあり、女性の役柄は女形が演じていて、後に時代劇の監督になった衣笠貞之助はこの時期は日活向島撮影所の女形であった[注釈 15]。, その一方で帰山教正が1919年(大正8年)に新劇を映画に導入した現代劇である『生の輝き』、『深山の乙女』を発表し、その翌年1920年(大正9年)にそれまで歌舞伎の興行しか手掛けてこなかった松竹が松竹キネマを興し、新劇の小山内薫が、同年松竹キネマに招かれて活動写真を撮り始めると、松竹は初めから女形を使わず、女優を映画に起用した。その中から川田芳子、柳さく子、飯塚敏子らが松竹時代劇のスターとなった[注釈 16]。, この頃に松竹が映画事業に乗り出したのは、自社が経営する劇場よりも松竹が当時日活に貸していた大阪道頓堀朝日座での客の入りが良く、白井竹次郎が映画に乗り出すべきとの提唱から大谷竹次郎が末弟の信太郎を渡米させ、アメリカの映画事業を調査させてから参入したのであるが、大谷竹次郎はその時に「日本映画の俳優は一流の舞台では用いられない落伍者の集まりであり、このままでは世界の映画界に肩を並べることはできない」として「世界に恥ずかしくないものを作り、映画を輸出する」ことを視野に置いていた。そのためには女形は最初から使わないと決めていた[32][注釈 17]。また旧劇については日活の尾上松之助の歌舞伎的な殺陣に対して新国劇を専属にしてリアリズムな殺陣を打ち立てようとしていた[33]。, 1922年(大正11年)頃までは日活は現代劇でも新派の影響で女形を起用していたが、その年の暮れに女形を交えた新派役者10数人が国際活映(国活)[注釈 18]に移籍したため、それまでの女形起用を止めて女優を起用し、新劇的な現代劇を製作し始める。その時に日活における名称が、時代劇は「日活旧劇部」、現代劇が「日活新劇部」であった。その当時は東京でも、巣鴨の国際活映(国活)等で時代劇映画は盛んに製作されていたが、新劇の発展と映画への導入が東京主導で行なわれ、やがて国活が倒産し、人材が京都に流出したことでその後の「時代劇の京都」と「現代劇の東京」との棲み分けの源流となった。またマキノ省三は尾上松之助の映画で女形を使って、女優は使っていなかったが、日活は1924年(大正13年)に尾上松之助主演『渡し守と武士』で初めて女優を使っている[注釈 19]。, 日活向島撮影所でも1923年(大正12年)に松竹に刺激され女優の採用を始めて「第三部」というセクションを設け、女優起用の映画を製作した。この年の現代劇『朝日さす前』がその第一作で、後に日活時代劇の大スター酒井米子を輩出している。同年9月、東京を関東大震災が襲い、日活向島撮影所は閉鎖。女優やスタッフは日活京都に移り、以後、京都が時代劇映画の本場となった[注釈 20]。, マキノ省三が1921年(大正10年)に日活から独立し、牧野教育映画製作所を設立した。これはマキノ省三が尾上松之助や旧劇と袂を分かつことでもあった[注釈 21]。当時忍術映画で尾上松之助が人気役者になったが一方で青少年に悪影響を与えているという批判を受けて、それを教育映画ということで批判を交わす狙いがあったとも言われる一方で、単純な勧善懲悪で「幼稚なチャンバラ映画」であった松之助映画を脱却する方向を模索していたとも言われている[34]。そして1922年(大正11年)に『実録忠臣蔵』を製作して新国劇が生んだ新しい殺陣である写実的な立ち回りを使った当時としては斬新な動きの映画を作った。この映画を見て寿々喜多呂九平[注釈 22]がマキノの下に参じ、やがて1925年(大正14年)にこの寿々喜多呂九平が脚本、二川文太郎が監督、阪東妻三郎が主演して製作されたのが『雄呂血』であった。ラストでの主人公が大勢の捕り方に囲まれて大剣戟シーンとなる場面は迫力のあるもので、阪妻の激しい立ち回りが、それまでの歌舞伎調の優雅さとは全く違うリアルな殺陣を見せて時代劇映画に新風を吹き込んだ。以後彼は剣戟映画の大スターとなった。新国劇で展開された立ち回りが映画の殺陣に取り込まれて、それまで旧劇と呼ばれていたものが時代劇と呼ばれる新しいジャンルになったのである[35]。, この頃にマキノ省三は1924年(大正13年)に東亜キネマと合併して翌1925年(大正14年)に聯合映画芸術家協会を設立し、そして同年6月にマキノ・プロダクションを設立した。ここでマキノは、阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介らのスターを生み出した。彼らは時代劇に「剣戟」の見せ場を持ち込んだ「チャンバラスター」であり、以後「チャンバラ映画」は時代劇の主流を占めるようになった。またマキノが去った後の日活に新劇の小山内薫の門下でもあった伊藤大輔監督と第二新国劇から日活に来た大河内傅次郎主演のコンビが登場し、このコンビで『幕末剣史 長恨』『忠次旅日記』『下郎』『新版大岡政談』と次々と傑作を生み出し、そして『丹下左膳』シリーズが始まりヒットした[36]。この伊藤大輔監督は後に市川右太衛門主演で『一殺多生剣』、月形龍之介主演で『斬人斬馬剣』を製作している。それはおよそ「松之助映画」とは違った「反逆的ヒーロー」の映画であった[37]。, やがて1925年(大正14年)に設立された阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を筆頭に、彼ら「チャンバラスター」は次々と独立してスタープロダクションを設立し、チャンバラのスター映画を量産した。阪東妻三郎は、竹薮だった京都郊外の太秦村の地に初めて撮影所を建設した人物であり、この撮影所はその後東映京都撮影所となり太秦映画村となった。, そして大正時代が終わろうとしていた1926年(大正15年)9月、日本映画最初の時代劇スター尾上松之助が世を去った。寿々喜多呂九平と阪東妻三郎、伊藤大輔と大河内傅次郎のコンビが台頭し、松之助自身が自分のこれまでの映画が時代にすでに適応できていないことを感じ取っていたという[38]。全盛期であった1917年(大正6年)には月9本、3日に1本の割合で量産されて「低級な観客相手の粗製濫造品」「何等奥行も巾もない駄作ものばかり」と批評されても映画を作り続けた松之助だが、田中純一郎はその著「日本映画発達史」の中で「他の映画が舞台劇的で動作が少なく科白による内容発展に一切を委ねていたのに対して、松之助自身の軽快な動作、映画的本質の一つとして掴んだマキノ省三の演出方針を基盤として‥‥退屈感はなく視覚を満足させるだけの動きと変化を持っていた」として「他の映画よりは映画的本質に適っていた」と評価している[39]。, 1927年(昭和2年)、松竹が林長二郎(長谷川一夫)を時代劇スターとして売り出し、女形出身の林の美貌は日本全国の女性を虜とする[注釈 23]。林長二郎の登場は彼以外のスターは圧倒的に男性ファンが多い中で、時代劇映画に女性むエポックとなったのである。, この頃にマキノ省三は大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始した。しかし撮影中の度重なるトラブルで片岡千恵蔵や嵐寛寿郎が離反し、しかも精魂込めて製作した『忠魂義烈 実録忠臣蔵』のフィルムを編集中に火災を起こして焼失する不運に見舞われて、1929年(昭和4年)に失意のうちに世を去った。しかし息子のマキノ正博(後のマキノ雅広)が前年に『浪人街』を監督し、その後長く戦前・戦後の時期に時代劇を作り続けて1972年(昭和47年)までに261本の映画を製作してその大半は時代劇であった。, 一方、片岡千恵蔵はマキノプロから独立後に千恵蔵プロを設立したが、その際に伊藤大輔監督に相談に行き、「自分のところにいる若い2人を提供するから、今までとは違う時代劇を作ればいい」という趣旨のアドバイスを受けた。その若い2人とは伊丹万作(伊丹十三の父)と稲垣浩であった。そしてやがて伊丹万作は千恵蔵プロで『國士無双』[注釈 24]『戦国奇譚 気まぐれ冠者』『赤西蠣太』などの新しく知的で明るい時代劇を作り、「明朗時代劇」と呼ばれた。ユーモアがありナンセンスさもあり、それまでの陰惨な大剣戟や暗い傾向映画に嫌気をさした観客に支持された[40]。また稲垣浩は千恵蔵プロで『瞼の母』『一本刀土俵入り』などの秀作を製作した。, 1934年(昭和9年)、京都の鳴滝に映画監督の滝沢英輔、稲垣浩、鈴木桃作、脚本の三村伸太郎、八尋不二、藤井滋司ら有志が集まり、さらに山中貞雄、萩原遼らが加わって合計8人が集まり共同ペンネーム「梶原金八」[注釈 25]の名前でシナリオを作り、そして製作された時代劇映画には現代語を採り入れて新風を巻き起こし、一大勢力となった。このグループを鳴滝組と呼ばれて、片岡千恵蔵の千恵蔵プロの流れを受けて、ユーモアのある明るい時代劇を製作していった。この鳴滝組が製作した映画の代表作が山中貞雄監督、大河内傅次郎主演の『丹下左膳余話 百万両の壺』である。これらの時代劇はその明るさとセリフの分かりやすさ、そのテンポの良さで「髷(マゲ)をつけた現代劇」[41]と言われた。そしてこの頃が戦前における時代劇の頂点であった[注釈 26]。, また山中貞雄はその後応召して戦病死したため、わずか5年間の活動で全26本の作品であったが、『丹下左膳余話 百万両の壺』の他に『河内山宗俊』『人情紙風船』のたった3本のフィルムしか現存していない。しかし現在でも山中作品は高い評価を受けている。, 1930年代半ばからは、トーキーが導入され、時代劇にも、映画館ごとの活動弁士と生演奏ではない、俳優のセリフと音楽がもたらされ、当時唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉が現れ、そこで製作された映画が大曾根辰夫監督『大江戸出世小唄』[注釈 27]で、これが最初の時代劇ミュージカルであり、その後マキノ正博監督の『鴛鴦歌合戦』[注釈 28]が製作された[注釈 29]。, この昭和初期の映画製作会社は、日活、帝国キネマ(後の新興キネマ)、松竹、東亜キネマ、PCL(後の東宝)、右太衛門プロ、千恵蔵プロ、阪妻プロ、マキノプロ、大都映画[注釈 30]などで、年間で各社10本前後から100本前後の製作本数を記録して、時代劇も大きなジャンルとして人気があった[42][注釈 31]。, またトーキー以後もサイレント映画による剣戟にこだわる俳優やスタッフ、観客は存在し、1935年(昭和10年)に西宮の東亜キネマ跡地に設立された極東映画、翌1936年(昭和11年)に奈良の市川右太衛門プロダクション跡地に設立された全勝キネマは、それぞれが解散するまでサイレントの剣戟映画を量産しつづけた[43]。, 1930年代、時代劇の製作本数が現代劇を上回る年もあり、時代劇は質量ともに戦前の黄金期を支えていた[44]。, 松之助の忍者映画から始まって、やがて『雄呂血』のようなニヒルな反逆的ヒーローが出たり、その後は『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』のような反体制的な傾向映画が出て、世の中が暗くなっていくと千恵蔵プロや鳴滝組などから明朗時代劇と呼ばれる『國士無双』『赤西蠣太』『丹下左膳余話 百万両の壺』のような明るい時代劇が生まれ、「髷をつけた現代劇」と揶揄され、この鳴滝組的な映画に対抗する形で今度は真面目に歴史ものを描くべきとの声があがり、昭和10年代に入ると『阿部一族』『海援隊』『元禄忠臣蔵』『江戸最後の日』など歴史映画と呼ばれる作品が製作された。やがて国策映画として『海賊旗吹っ飛ぶ』『狼火は上海に揚る』『かくて神風が吹く』などが作られ、映画人が自由に映画が作れない時代となった[45]。そして国策として映画会社の統合が進められて日活の製作部門と新興キネマ・大都映画が合併して大日本映画(大映)が設立され、その第1回作品として阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎が揃っての初共演で『維新の曲』が製作された。, 敗戦までの日本映画では流血や博打、接吻などの場面は当局によって禁止された。時代劇も例外ではなく、チャンバラでいくら人が斬られても、また切腹の場面でも流血があると検閲でカットされた[注釈 32]。阪東妻三郎は相手を斬る際に、刃を当てた後もう一回引く「二段引き」という殺陣を使ったが、これも「骨まで斬った感じが出るから」とカットされたことがある。全般に「リアルな殺陣」はすべて検閲でカットされたのである。, また、剣戟で人を斬る際の効果音を初めて使ったのは1935年(昭和10年)の『大菩薩峠』で、稲垣浩監督のアイディアで、カチンコの音を逆回転した効果音が使われた。しかしこの効果音も「検閲保留」扱いにされている [46]。, 1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後、日本が連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領統治下に置かれると、GHQは教育文化政策を担当する民間情報教育局(CIE)を設置し、さらに民間検閲支隊(CCD)を置いて、日本映画は二重の検閲を受けることとなった[47]。その政策により、CIEから日本映画に対して13の規制項目が出されて(これが俗にチャンバラ禁止令と呼ばれている)、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義的であり、敵討ちなど復讐の賛美がアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起する要素がある映画は一時製作が制限された。チャンバラ場面が禁止されたため、阪東妻三郎や片岡千恵蔵などの時代劇スターは現代劇に主演[注釈 33]し、戦前『鞍馬天狗』をヒットさせた嵐寛寿郎の場合は剣戟の無い推理物の時代劇『右門捕物帳』でしか、舞台も映画もできなかったと語っている[48]。しかしそんな時代でも時代劇は製作していた。戦後最初に作られた時代劇は丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』で終戦の年の10月に公開されている。この数々の制約を受けた特定の時期に撮影が出来た時代劇は傾向として次の4つが挙げられる。1番目は俗に「戦争反省映画」と言われているもので時代劇では嵐寛寿郎主演で稲垣弘監督『最後の攘夷党』などで、幕末の攘夷運動に加わった浪士が西洋人に助けられて排外主義の愚かさに気づくストーリーであった。2番目は「既成のヒーロー像の破壊」であり、あるいはそれまでの任侠のイメージを変えるものとして松田定次監督『国定忠治』や吉村公三郎監督『森の石松』があり、特に『国定忠治』は正義感の強い民主主義的な人物として描かれていた。3番目は「剣戟や立ち回りシーンの無いもの」で市川右太衛門主演『お夏清十郎』などの恋愛ものがその例であり、4番目はその「剣戟や立ち回りシーンを回避した映画」で前述の『右門捕物帳』や伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演『素浪人罷通る』などであった。しかし戦前からの時代劇を見慣れた観客にとっては「肝心なところが欠けている」と見なされていた[49]。, そして1951年(昭和26年)9月の講和条約成立で自由に時代劇が作れる時代に入ると、それまで蓄積されていたエネルギーが爆発したようにどっと時代劇映画が溢れ、時代劇映画の歴史で最も輝く時代の始まりであった。, それは占領時代に作られた黒澤明監督『羅生門』の受賞からスタートした。そしてこの『羅生門』はベネチア映画祭でグランプリを獲得した。1952年(昭和27年)に占領体制が終わると、どっと時代劇映画の量産が始まった。溝口健二の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』、黒澤明の『七人の侍』、衣笠貞之助の『地獄門』が製作されて時代劇映画の黄金時代の幕開けであった。嵐寛寿郎は再び『鞍馬天狗』に出演していった。, 戦後の時代劇映画の製作会社は、松竹、東宝、大映、東映、新東宝、日活、宝塚映画[注釈 34](東宝の傍系会社)などである。, 終戦直後に東宝が内紛と労働争議で分裂して1947年3月に新東宝ができ、しばらくは製作は新東宝、配給は東宝の形態がとられたが、やがて新東宝は東宝に配給を断られたことから自主配給に踏み切った。, その一方で戦前の1938年に設立され興行会社としてスタートした東横映画が、戦後1947年から映画製作に進出して当時大映が所有していた京都太秦の大映第二撮影所(後の東映京都撮影所)を借りて製作活動に入った。東横映画は自前の配給網を持たないので当初大映に配給する関係であったが、しかし大映の傘下では経営が成り立たないとして、大映に配給を頼る下請け会社から脱却するため、東急グループの支援を受けて自前の配給会社東京映画配給を1949年10月に作った。しかし赤字が増大し、そこで東急グループは同じ赤字の太泉映画[注釈 35]と東横映画と東京映画配給[注釈 36]を合併させて1951年(昭和26年)4月に東映と改称して、配給を東宝に委ねた。この当時東宝は分裂騒動の余波で自前での製作能力が無かったので、宝塚映画や東京映画の作品を配給し、そこへ東映作品も配給して、1951年頃は東映製作で東宝配給という提携関係であった[50]。しかしわずか1年で東映と東宝の提携は終了した。東宝が東映を傘下に収めようとしたことで東映が反発したとされている[51]。そして1950年の朝鮮戦争の勃発とともにGHQの方針が大きく転換して時代劇の製作が可能となり、やがて東映は自前の配給網を確保し拡大するために、二本立て興行を打ち立て、そこに東映娯楽版として中村錦之助や東千代之介をデビューさせて大人気となったことで一気に業界トップに躍り出ることになった。, それは時代劇を中心としたプログラムピクチャーによって、映画の中心が時代劇になった時代でもあった。, 東横映画は大映との提携を解消する頃に、当時大映に所属していて永田雅一社長と衝突していた片岡千恵蔵と市川右太衛門を引き抜き、やがて千恵蔵と右太衛門は東映となった後に取締役に就任した。全くスターがいなかった東横映画にとってはそれこそ観客を呼べる看板スターを持ったことになり、その後の東映においてスター中心のシステムを作るきっかけとなった。, 戦後のそれまで千恵蔵は『多羅尾伴内』や『金田一耕助』などの現代劇シリーズに出演し、右太衛門は時代劇だが『お夏清十郎』『お艶殺し』などのいわゆる艶ものに出演していた。1950年に千恵蔵はいち早く従来の時代劇を復活させて渡辺邦男監督で初めて『いれずみ判官』の『桜花乱舞の巻』『落花対決の巻』を出し、翌1951年にはマキノ雅弘監督で『女賊と判官』を出した[52]。右太衛門は松田定次・萩原遼監督で『旗本退屈男』の『旗本退屈男捕物控七人の花嫁』『旗本退屈男捕物控毒殺魔殿』を出し、それぞれが後の東映のドル箱シリーズとなった。1954年に二本立て興行に移り、毎週新作二本の製作体制になり、長編と東映娯楽版と言われる中編の連続物を組み合わせて、それに日舞出身の東千代之介、歌舞伎出身の中村錦之助をデビューさせて『笛吹童子』が大ヒットし、翌年には同じ歌舞伎から大川橋蔵がデビューした。, そして1956年(昭和31年)に松田定次監督『赤穂浪士』が大ヒットして、この年から業界トップに躍り出た東映は、マキノ雅弘監督が『次郎長三国志』[注釈 37]『仇討崇禅寺馬場』、伊藤大輔監督が中村錦之助主演『反逆児』および『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』、内田吐夢監督が片岡千恵蔵主演『血槍富士』および『大菩薩峠』三部作、そして中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作、松田定次監督はオールスターで『忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻』などが製作されて、時代劇スター中心のプログラムを組んで多数の時代劇映画を量産した。, 東映は片岡千恵蔵、市川右太衛門の両者を重役にして、ベテランの月形龍之介、大友柳太朗、そして若手の中村錦之助(のち萬屋錦之介)、東千代之介、大川橋蔵らが育ち、きらびやかで豪快な東映時代劇を築いていく。片岡千恵蔵と市川右太衛門は御大[注釈 38]と呼ばれ、千恵蔵が『いれずみ判官』(遠山の金さん)を、右太衛門が『旗本退屈男』といったそれぞれシリーズを持ち、月形龍之介は『水戸黄門』、大友柳太朗は『快傑黒頭巾』『丹下左膳』『右門捕物帖』、中村錦之助は『一心太助』『殿様弥次喜多』『宮本武蔵』、東千代之介は『鞍馬天狗』『雪之丞変化』、大川橋蔵は『若さま侍捕物手帖』『新吾十番勝負』の各シリーズを持ち、加えて正月には『忠臣蔵』や『任侠清水港』『任侠東海道』『任侠中仙道』、お盆には『旗本退屈男』(1958年)『水戸黄門』(1960年)など歌舞伎の顔見世のようにオールスターキャストの時代劇を製作して、1950年代後半(昭和30年代前半)は東映時代劇の黄金期であった。そしてこの量産時代の東映にあって作品を作り続けた監督には伊藤大輔、マキノ雅弘、松田定次[注釈 39]、内田吐夢以外には田坂具隆[注釈 40]、佐々木康[注釈 41]、沢島忠[注釈 42]、加藤泰[注釈 43]、河野寿一[注釈 44]、工藤栄一[注釈 45]、などがいた[53]。, 戦争中の1942年(昭和17年)に当時の日活の製作部門と新興キネマと大都映画が合併して設立された大映は、戦後も溝口健二監督『雨月物語』『山椒大夫』を製作して、その後同じ溝口健二監督『近松物語』[注釈 46]、衣笠貞之助監督『地獄門』で主演した戦前からの大スター長谷川一夫の『銭形平次捕物控』シリーズを中心にして時代劇を量産し、やがて若い市川雷蔵、勝新太郎が育って、雷蔵は『新・平家物語』から『大菩薩峠』三部作、そして『眠狂四郎』シリーズを自身の代表作とし、勝新は『座頭市』シリーズでその後長く日本映画界を牽引することとなった。東映時代劇の華やかさと優雅さに全く無縁で全く異質な『眠狂四郎』『座頭市』というダーティーなヒーローを二人が演じて独自の大映時代劇を築いていく。監督には最初の時期には黒澤明[注釈 47]、伊藤大輔[注釈 48]、渡辺邦男[注釈 49]もいたが、溝口健二、衣笠貞之助、森一生[注釈 50]、三隅研次[注釈 51]、安田公義、田中徳三、池広一夫らがいた[54]。, 戦後の東宝争議の後に設立した新東宝は、1950年3月から自主配給で大手会社となり、初期には佐伯清監督で嵐寛寿郎主演『中山安兵衛』[注釈 52]、溝口健二監督『西鶴一代女』、伊藤大輔監督『下郎の首』[注釈 53]、山田達雄監督で嵐寛寿郎主演『危し 伊達六十二万石』[注釈 54]、渡辺邦男監督で美空ひばり主演『ひばり三役 競艶雪之丞変化』などの秀作があるが、後期に入って大蔵貢[55]が社長に就任すると怪談ものを作り始めて、渡辺邦男監督[注釈 55]『怨霊佐倉大騒動』、中川信夫監督『怪談累が淵』『東海道四谷怪談』などを製作し、1961年に経営不振から映画製作を中止した[56]。, しかし新東宝から丹波哲郎、天知茂などがデビューして、新東宝倒産後に五社協定に拘束されずにテレビに移っていった。, 日活は1942年に製作部門が大映に吸収されて、戦後はずっと映画興行会社であったが1954年に製作部門を再開し、それと同時に時代劇で、鳴滝組であった滝沢英輔監督で新国劇の辰巳柳太郎主演『国定忠治』『地獄の剣豪 平手造酒』を製作し、また同じ滝沢英輔監督で島田正吾主演『六人の暗殺者』、三國連太郎主演『江戸一寸の虫』[注釈 56]を出したが、その後石原裕次郎の人気沸騰で現代劇の活劇路線を中心としたプログラムピクチャーを組み、やがて時代劇は製作しなくなった。しかし1957年(昭和32年)に当時の自社のスターを総出演させた川島雄三監督『幕末太陽伝』[注釈 57]という異色時代劇を製作している[57]。, 文藝路線の松竹は時代劇が少なく、大船での現代劇が主で京都の撮影所では思うようには時代劇の製作は出来なかった。1951年に創立30周年記念映画でオールスターキャストの『大江戸五人男』(伊藤大輔監督)を、また1953年に八代目松本幸四郎(後の松本白鸚)の井伊大老役で大作『花の生涯』(大曾根辰夫監督)を、1954年も同じ八代目松本幸四郎が大石内蔵助を演じた『忠臣蔵花の巻・雪の巻』(大曾根辰夫監督)を、そして3年後の1957年に再び大曾根辰夫監督で『大忠臣蔵』[注釈 58]を製作したりしたが、シリーズものとしては唄う映画スターと呼ばれた高田浩吉主演の『伝七捕物帳』シリーズぐらいで、松竹が抱える歌舞伎俳優を中核に新劇やフリーの俳優で脇を固め、これに近衛十四郎と高田幸吉を絡めてそこへ新人の森美樹を次代の時代劇スターに育てる予定であった。しかし1960年から61年にかけて森美樹が事故死し、高田幸吉と近衛
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