また、ホームランの功績は言うまでもないが、打撃によっては4割も可能という定評は現役時代からあった[142]。, また、四球数も非常に多かったことから出塁率も非常に高く、通算出塁率.446及び1974年に記録したシーズン出塁率.532は現在も破られていない。2リーグ制以降でこの記録に最も近づいた記録は落合博満が1986年に記録した.487であり、実に.045の大差をもつけている。また、2リーグ制以降のシーズン出塁率では1位 - 5位までを王が独占しており、ベスト10でも7個ランクインしている。, メジャーリーグで広く普及している総合打撃指標であるOPS(出塁率+長打率)では1.080 (.446 + .634) という数字を残している。OPSが10割を超える選手は数少ない。日本プロ野球界で2000打数以上の選手でOPSが10割を超える打者は王、ランディ・バース (1.078)、ロベルト・ペタジーニ (1.051) の3人のみである。4000打数以上の選手の中では王のみである(2位は松井秀喜の0.996)。またシーズン記録でも日本プロ野球史上で10度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。, OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。傑出度を示すRCWINのシーズン記録でも1位から9位までを王が独占している(10位は1986年のバース)。打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、年度別打撃成績参照。213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。, 通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけて堂々の1位。王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(現在はバリー・ボンズが更新)。, シーズン四球数は歴代1位から4位(130個、2018年の丸佳浩とタイ)まで独占、歴代6位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び単独7位から12位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代10傑のうち8、20傑のうち延べ13を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(連続打席四球歴代5位)。なお、シーズン四球記録を達成した1974年は現在より13試合少ない130試合制での記録あり、現行の143試合制に換算すると174個となる。, さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。イニング別では1回が一番多い。シーズン敬遠数も歴代1位から3位までを独占している。なお、満塁で敬遠されたことはない。, 四死球が非常に多かったため、通算打席数11866はセ・リーグ記録だが、通算打数9260は衣笠祥雄(通算9404打数)に次いでセ・リーグ2位となっている。, 王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。一塁手としての9年連続受賞は現在も歴代1位。一塁手としての9回の受賞も1999年に駒田徳広に抜かれるまで1位だった。現在は駒田に次いで歴代2位(2018年度シーズン終了時点)。, 長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。特にバント処理に関しては他球団からも警戒されており、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ただし、現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数165も歴代1位である。一塁手として通算2799試合・27743守備機会・25893刺殺・1685補殺・2317併殺を残しており、通算守備記録においても他の一塁手を圧倒している(すべて一塁手プロ野球歴代1位)。, ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の対大洋ホエールズ戦と、アーロンの記録を塗り替えた9月3日の対ヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。, 2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)ともに野村克也と並ぶタイ記録である(選手としての最多選出回数は野村の22回)。, また、直接の出演ではないが、日清食品のカップヌードルのCMに、自身の756号本塁打の映像が使われたことがあり、CM中では乱入した永瀬正敏と「共演」している。, 以上の2曲はともに作詞は阿久悠である。阿久によると、「サウスポー」については後に王本人から「僕の歌ありがとう」と言われたとのこと。, 1996年(平成8年):渥美清1998年(平成10年):吉田正1998年(平成10年):黒澤明2000年(平成12年):高橋尚子2009年(平成21年):遠藤実2009年(平成21年):森光子2009年(平成21年):森繁久彌2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表2012年(平成24年):吉田沙保里, 現役時代、独学でピアノを学び、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた, 王が引退した1980年において、メジャーリーグ26球団の本拠地球場の多くは両翼が100mを超えており、両翼が100m以下の球場も左右中間は115m以上あるなど充分な外野の広さを持っていた。これに対し、後楽園球場は両翼が実測87.8m(約288.1ft)、左右中間110.1m(約361.1ft)と狭く、他のセ・リーグの球場もほぼ同様の広さであった。, 当初は助監督の3年間で退任して巨人を去るつもりであったが、球団の要請により、監督に登用されて引き受けることとなった。, 戦後から2015年まで(水原監督から第二次原監督まで)でBクラス経験が一度もない巨人軍監督は、水原と王の2人だけである。, 長嶋自身、周囲への助言を求めている自分と、そうでもない王の対比を意識しており、その違いは「ワンちゃんは荒川さん直々の打法があったが、自分はそもそも師匠がおらず、直伝された技術がなかった。だから自分から周囲に教えを乞うしかなかった。」と述べている(「巨人V9 50年目の真実」より), 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「坊や、何で右で打っているの?」と書いている。, 自著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』では「じゃあ、次は左で打ってみたらどうだい。」と言っている。, 荒川はその時の王の印象を後に「なんて素直な少年なんだと思った。普通は大事な試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。, 当時の巨人でのシーズン最多本塁打は青田の32本であり、簡単に30本以上が出るとは思っていなかった。, この日は日曜日で、当時日曜日はダブルヘッダーとすることが多く、第1試合は薄暮ゲームで午後4時半から開始することが多かった。, 『王選手コーチ日誌 1962-1969 ~一本足打法誕生の極意~』108-109P参照, 『王選手コーチ日誌 1962-1969 ~一本足打法誕生の極意~』114-115P参照, ベースボール・マガジン社「東京ヤクルトスワローズ40年史 1969-2009 ツバメの記憶」43ページ, 読売新聞1978年8月31日1面「王、栄光の800号」読売新聞縮刷版1978年8月p1017, 読売新聞1979年9月23日17面「王38号、史上初の2000打点 だが巨人、中日に不覚」読売新聞縮刷版1978年9月p839, 読売新聞1979年9月13日17面「王"健在"代打初アーチ」読売新聞縮刷版1979年9月p469, 読売新聞1980年4月6日16面「王、千号にも晴れず」読売新聞縮刷版1980年4月p206, 読売新聞1980年6月13日17面「王850号、金字塔また高く 金田(広島)から豪快ライナーで」読売新聞縮刷版1980年6月p491, 読売新聞1980年10月13日17面「王、19年連続の30号」読売新聞縮刷版1980年10月p485, 読売新聞1980年10月13日17面「SBO ボールが見えた!苦しみの末、感触戻し」読売新聞縮刷版1980年10月p485, 読売新聞1980年10月23日17面「"藤田巨人"早くも始動 中村(一軍ピッチング) 国松(二軍監督)氏入閣へ」読売新聞縮刷版1980年10月p901, 読売新聞1980年10月26日17面「王『助監督』を快諾」読売新聞縮刷版1980年10月p1038, 読売新聞1980年10月23日17面「"来年も現役で"王、重ねて強調」読売新聞縮刷版1980年10月p901, 「悲劇の礎あっての巨塔 東京大空襲被災 王さんの願い」 東京新聞 TOKYO Web 2011年3月10日, 「"最強の阪神"を粉砕した陰の男 吉田増蔵の伝説をたずねて」文藝春秋 Number129 86頁参照, ただし、NPB公式の出塁率のシーズン記録は1986年落合博満(ロッテ)の.487である(両リーグで最高出塁率を表彰開始した1985年以降が対象であるため)。, プロ野球 名選手列伝 驚きの記録を残したツワモノたち。著者・吉野秀。2008年6月15日。33頁・34頁。, http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2568605/3757511, 台湾週報:一覧:トップページへ > 台灣週報 > 台湾週報 > 馬英九総統が王貞治氏に「二等景星勲章」を授与, http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090924/lcl0909241241001-n1.htm, 福岡市ホームページ:HOME > 市政情報 > 市政の概要・市のプロフィール > 王 貞治 氏 (平成16年12月17日選定), http://kyushu.yomiuri.co.jp/sports/baseball/hawks/20090809-OYS1T00346.htm, 王会長の母、108歳大往生「息子として誇り」― スポニチ Sponichi Annex 野球, 【ヒルマニア】前回東京五輪でも3・20開幕…王が金田から150M場外弾!ローラースケート場隣のコーヒーショップ屋根に着弾, バレンティン、本塁打記録は再び“妨害”に遭うのか?“妨害”の歴史と五輪招致への影響, http://www.sanspo.com/baseball/news/20180601/haw18060116350002-n1.html, https://www.nikkansports.com/sports/athletics/news/201712120000519.html, http://www5.nikkansports.com/sports/hakone-ekiden/2011/column/archives/20101224_6680.html, http://www.hochi.co.jp/sports/feature/hakone/garticle.html?id=20141109-OHTSI50000&gr=CO004390, https://web.archive.org/web/20040223090736/http://www.nikkan-kyusyu.com:80/cgi-bin/vi/view.cgi?id=1072187059&jl=da, https://www.excite.co.jp/News/90s/20160802/E1469421926602.html, http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20180601-OHT1T50277.html, https://www.nishinippon.co.jp/nsp/hawks_flash/article/421245/, https://www.news-postseven.com/archives/20180607_692797.html, http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100817-OYT1T00555.htm, “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」(1/3ページ)”, http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081226/bbl0812260039000-n1.htm, “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」(2/3ページ)”, http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081226/bbl0812260039000-n2.htm, “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」(3/3ページ)”, http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/081226/bbl0812260039000-n3.htm, http://park19.wakwak.com/~motoo/170420.html, http://bis.npb.or.jp/history/ssb_obp.html, 福岡ソフトバンクホークス王貞治前監督に県民栄誉賞を贈呈!~「県民の誇り」偉大な功績を称えます~, http://www2.plala.or.jp/ippeifuji/p-k1-19.htm, 王選手ホームラン世界新記録 - NHKニュース(動画・静止画) NHKアーカイブス, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=王貞治&oldid=80312436, この項目では、野球選手について説明しています。この野球選手にちなんで命名された小惑星については「, 1952年は最高打撃賞、1953年から1963年は首位打者賞、1964年から1979年は打撃賞。1979年限りで廃止。, ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更, ※3・4 2004年・2005年レギュラーシーズン勝率1位ながら04年西武・05年ロッテとの, ※5 2006年、癌の治療のため7月8日以降55試合欠場(30勝22敗3分)。監督代行は, 初安打・初本塁打:1959年4月26日、対国鉄スワローズ6回戦(後楽園球場)、7回表に, 1000打点:1969年10月6日、対大洋ホエールズ25回戦(川崎球場)、8回表に, 3000塁打:1970年6月26日、対中日ドラゴンズ8回戦(後楽園球場)、8回裏に, 1500試合出場:1970年8月11日、対ヤクルトアトムズ16回戦(後楽園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上32人目, 3500塁打:1972年6月6日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、1回表に, 4000塁打:1973年9月19日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、1回表に, 2000試合出場:1974年6月29日、対ヤクルトスワローズ13回戦(後楽園球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上8人目, 1500打点:1974年7月30日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、5回表に, 2000安打:1974年8月4日、対阪神タイガース17回戦(阪神甲子園球場)、6回表に, 4500塁打:1975年8月16日、対大洋ホエールズ18回戦(後楽園球場)、7回裏に, 350二塁打:1975年9月24日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日スタヂアム)、7回表に, 5000塁打:1977年7月13日、対中日ドラゴンズ11回戦(ナゴヤ球場)、1回表に, 2500試合出場:1978年6月3日、対広島東洋カープ10回戦(後楽園球場)、3番・一塁手で先発出場 ※史上2人目, 2500安打:1978年6月27日、対中日ドラゴンズ12回戦(後楽園球場)、6回裏に, 2000打点:1978年9月22日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤ球場)、8回表に, 400二塁打:1979年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に, 5500塁打:1979年6月12日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、1回裏に, 100犠飛:1980年10月10日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤ球場)、6回表に, 通算出場試合: 2831(歴代3位、セ・リーグ歴代2位、同一球団での通算出場試合数としては歴代1位)※, 5504試合連続退場なし(1959年 - 1988年、1995年 - 2008年)※日本記録, シーズン40本塁打以上: 8年連続含む13回(1963年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、日本記録), シーズン30本塁打以上: 19年連続19回(1962年 - 1980年、日本記録、20本塁打以上でも日本記録), シーズン10本塁打以上: 21年連続21回(1960年 - 1980年、日本タイ記録), 年齢別シーズン最多本塁打数(22、23、24、26、27、34、36、37、38歳), シーズン打率3割以上: 13回(1963年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年、, シーズン100安打以上: 21年連続21回(1960年 - 1980年、日本記録), 打率ベストテン入り: 16年連続含む17回(1960年、1962年 - 1977年、日本記録), シーズン100打点以上: 7年連続含む14回(1963年 - 1969年、1971年 - 1974年、1976年 - 1978年), シーズン守備機会連続無失策: 991(1980年4月25日 - 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録), ダイエーの監督として連覇を果たした2000年のシーズンオフに、巨人のOB戦(テレビ放映)があり、新調された背番号1のユニフォームを着て参加している。, 王貞治 走り続ける人生(2011年12月11日、TBS、RKB創立60周年記念番組), 「50円で1.5倍、ペプシ300」のキャッチコピー、ファンブック「王の本」プレゼントや756号ホームランキャンペーンなどが好評を博しペプシの知名度・売り上げアップに貢献。, 1983年に日産自動車が創業50周年を記念して数々の特別仕様車などが発売され、王がCMキャラクターとして出演していた。, 歌詞の冒頭に出てくる対戦相手は王をイメージしており、全編としてその対戦を(投手側から)歌った内容になっている。, 「HAWKS2008〜ありがとう、王監督。14年間のホークス物語〜」メインテーマソング。王貞治に感謝の意を込めて捧げた曲になっている。, 荒川博 著『王選手コーチ日誌 1962-1969 ~一本足打法誕生の極意~』 講談社 2010年7月発行, 王貞治 著『もっと遠くへ ~私の履歴書~』 日本経済新聞出版社 2015年6月発行. 王 貞治(おう さだはる、中国語 拼音:Wáng Zhēnzhì〈ワン・チェンジー〉、1940年(昭和15年)5月20日 - )は、東京府 東京市 本所区(現・墨田区)生まれ、中華民国籍の日本の元プロ野球選手・監督。 血液型はO型。愛称は「世界の王」「ワンちゃん」。. 內湖無故冤殺事件,又稱王景玉隨機殺人事件 ,內湖殺童案 ,內湖女童命案 ,內湖隨機殺童案 ,內湖隨機尾隨殺人案 ,小燈泡事件等,為2016年3月28日上午11時許發生於臺灣 臺北市 內湖區的一宗無故冤殺事件,造成一名4歲女童死亡 。 !」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りした』というエピソードを披露している。, 現役時代から道具を丁寧に扱うことで知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた。, 律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地や優勝旅行先に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。なお、王は翌1961年以降、巨人の監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。, ただし、若い頃は門限破りの常連で銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。, また、若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜き続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。, 澤宮優の著書『打撃投手』によると王は打撃投手にも非常に親切で、長年王専属の打撃投手を務めていた、同い年の峰国安が打撃投手を辞めて退団(大洋ホエールズコーチ就任)することになり、1974年に来日したハンク・アーロンとのホームラン競争での王への投球が引退の場となった。ホームラン競争の後、峰が引退の記念に王のサインを頼んだところ王は「それなら一緒にアーロンのサインももらったらどうだ」と言い、アーロンの控え室に行き彼も快く応じて、王とアーロンのサインを寄せ書きで3枚もらったという。この他にも、王は「俺は禁酒するから、車に入っているウィスキー、君が飲んでくれないか」と酒の入ったケースを渡したり、「これは正月の餅代といったらあれだけど僕の気持ちだ。今まで僕のために投げてくれてありがとう」と札束の入った封筒を渡したり、礼を尽くしたという。, 王がプロ3年目に知り合った心臓病の野球少年に「僕もホームランをかっ飛ばす選手になるから、君も早く元気に野球をやれるように頑張れ」と励まし続けた。しかし、その少年は薬石効なく13歳の若さでこの世を去ってしまう。この少年の両親が東京都品川区の海徳寺に、息子を悼んでバットを持った地蔵を建立し、王も現役時代、シーズンが終わると毎年のようにこの地蔵にお参りしていた。そうしたことからこの地蔵をいつしか「ホームラン地蔵」と呼ぶようになったという[105]。, 運動量が多いため一般人より食べる量が遥かに多いと言われるプロ野球選手の中でも、並外れた大食漢としてたいへん有名である。選手時代はおやつ代わりにラーメンやカツ丼を平らげ、夜食に餃子を何人前も食べたりしていたという。昼食が済むとすぐに夕食のことが気になるほど、食べることへの執着は凄いものであった。監督時代は若手選手たちが飯を食べる様子を見て「なんだ、今の若いのは全然食べないんだな」と小食化を嘆いていたという。同じく大食漢として知られる川上哲治が唯一敵わなかった相手が王で、食べ比べた際に「これはかなわん」と降参したという。酒も非常に強く、数多く王が挑んだ飲み比べで負けた相手は大鵬ただ一人だったという。, 胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。, 2019年現在も若手の活躍をチェックしており、中田翔にアドバイスを送っている[106]。, 現役時代、独学でピアノを学び、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた[要出典]。, 東京在住時には料理を全くしなかった王だが(しかし、スパゲティだけはかなりの凝りようで、クロマティにも作り方の指導をしていたエピソードがある)、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい[要出典]。生家が中華料理屋であるため、中学生になってからは店の厨房でラーメンを自分で作って食べていた[107]。, また、正月に箱根駅伝を沿道で観戦し、駆け抜けていく選手たちに声援を送ったこともある[108][109][110]。, 父・仕福は大陸から一人で日本に渡って来た天涯孤独に近い境遇であり、また外国人男性である事を理由に日本人である母方の親族や周囲の人間から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に正式に結婚するまでは、王とその兄弟は、表向きは王姓を名乗りつつも、法的には母親の私生児として日本国籍を保有していた。, 真面目で人一倍働いた仕福は、中華料理店の2号店を出すなど事業を順調に拡大しており、本来なら王を野球の道に進ませるつもりはなく、溶接工にさせたかったという[111]。父は1985年のシーズン中に逝去したが、訃報は広島市民球場での試合終了後に伝えられた。シーズン中かつ遠征中であり、当時巨人の監督だった責任感から王は通夜も告別式も出席しないつもりだったが、周囲の強い勧めで東京に戻って告別式に出席し、すぐに広島に戻って指揮を執った。, 1945年3月10日の東京大空襲は4歳の時であったが、「母の背中に背負われながら逃げ回り、夜空が真っ赤だったことを憶えている」ことを語っている[112]。, 10歳年上の兄・鐵城は医者で、王が2006年に胃癌の手術を受けた際、自身の出身であった慶應義塾大学病院に入院させ、後輩の医師だった北島政樹に手術執刀を依頼するなど、弟の闘病を蔭で支えていた。2008年秋に体調を崩し、12月20日に呼吸不全にて78歳で逝去した。王は「私の父親代わりだった」と兄、鐵城の死を悼んだ。, 1966年に結婚した恭子夫人との間に、王理恵を含む三女をもうけた。王の新人時代、よく練習を見に来ていた女子学生2人組の一人で、一人は快活に話す子だったが、もう一人の「大人しい子だな」と王が感じた女子学生が後の夫人である。妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。家ではかなりの亭主関白であり、本当に家の仕事は全く何もしなかったというが、しつけだけは王の担当であり、礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言った事に対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。そのため、娘達には「父のことはあまり好きでなかった」と言われていた時期もあったという[113]。, 夫人は2001年12月に逝去。だが、翌2002年に夫人の遺骨が墓地から骨壺ごと盗み出され、更にその翌2003年に300万円を要求される事件に遭遇した[114][115]。, 2018年5月30日、一般女性(当時60歳)と再婚し、翌6月1日に報道発表を行った。この一般女性は福岡・中洲に軒を構えていた有名料亭の女将を務めていたことがあり、王自身もこの料亭を贔屓にしていて、当該女性と出会ったという[116][117][118]。, 母・登美は、自著の中で「無学の上に特別な才能も何もない親のもとで、ここまでやってくれて、母さんは幸せです」(『ありがとうの歳月を生きて』勁文社)と、我が子への思いを語った。2010年8月16日、肺炎のため108歳で逝去した[119]。, 前述のように中華民国籍である。かつて中国大陸の政権与党は中国国民党であり、国号を中華民国としていた。当時、王を含めた中国内外に住む中国人(華僑・華人)はみな中華民国国籍であった。中国国民党は第二次世界大戦後に中国共産党との覇権争いに敗れて中国大陸を脱出し、台湾・台北に事実上首都を遷すが、1971年には国連を脱退し、日本を含めた国際社会の多くの国々から国家承認を取り消された。, 王は自らの知名度を政治的に利用されることを嫌い、世界中の多数の国家により正式な国家として承認された中華人民共和国や、自身が生まれ育った日本国の国籍に利便性のために帰化することをよしとしないことなどから、王は現在でも中華民国籍である。これは中華民国籍の在日中国人として生涯を全うした父親の遺志を尊重していることや、世界のホームラン王として国際的に有名になったことで「日本国籍を取得」「中華人民共和国籍を取得」「生涯中華民国籍であることを宣言」のいずれの行動も政治的意味を帯びてしまうことなどを『情熱大陸』でのインタビューにて理由として挙げている[出典無効]。王の娘では、理恵が父にならって未だに中華民国籍のままであることを明らかにしている。, なお、王を「台湾人」と誤って表現されることがあるが、これは国籍上中華民国籍であることに加えて「台湾」と「中華民国」が混同されがちであることが誤解の理由である。実際に王家の祖籍は中華人民共和国実効支配下の浙江省であり台湾島とのゆかりは全くない。, ただし、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝の際、海外メディアから「あなたは日本人ですか?」と質問された王は、「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている[120][121][122]。, 野球界以外にも広い人脈を持ち、歌手の美空ひばりとは「義姉弟」(王の本人談)という程、肝胆相照らす仲であった。ひばりが死去した1989年6月24日、王は台湾に出掛けており、その日の夕方に新東京国際空港へ帰日した際、報道陣からひばりが死去したことを聞くと「それは本当か」と言って絶句した。7月に行われた本葬では、王が弔辞を読んでいる。, 大相撲の横綱・大鵬幸喜とは同じ1940年の5月生まれ(誕生日が9日王が早い)であり、巨人軍球団指定接骨師だった吉田増蔵[123]が経営していた吉田接骨院の患者同士で知り合って以来、長年に亘り親交が深く[124]、休日に二人で夜通し酒を飲み明かしたこともある[125]。大鵬の通夜で、王が弔辞を読んでいる[126]。, プロゴルファーの鷹巣南雄とは50年以上にわたり親交があり旧知の仲。鷹巣の紹介で青木功とも親交を持つ様になる。プロゴルファーとして鳴かず飛ばずで何年かを過ごしていた青木は「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と王を手本として日々を過ごすと、1971年に関東プロで初勝利、その後は王さんと同じように、「“世界”の青木」というニックネームを頂くまでになったと青木は語る[127]。, WBCの際、イチローが王に対し「監督は現役時代に、バッティングが簡単だ、と思ったことはありますか?」と質問し、王は「バッティングの極意を掴んだ、と思ったら逃げていく、その繰り返しで結局、そんなことは一度もなかった」と答えた。イチローはこれを聞き「王監督だってそうだったんだ」と感じ、バッティングで悩むのは当然だ、と再認識でき、安心したという。, 王の存在は、アメリカでも早くから評価されていた。1970年に行われた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では1試合2本塁打など活躍、親善試合でありながらMLBの投手が敬遠するという光景も見られた。1976年には、アメリカの代表的スポーツ雑誌である「スポーツ・イラストレイテッド」に、日本プロ野球選手として初めての表紙を飾った。, その一方で日本では「世界の本塁打王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese homerun king Sadaharu Oh として紹介される。日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。, 2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる、「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。, 2006年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第1回大会では、監督として日本チームを世界一の座に導く。, 公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。, なお、雨天で試合途中にノーゲームで無効となった本塁打等、いわゆる「幻の本塁打」は1本もない。1964年9月23日の対大洋戦(後楽園球場)で放った最後の55号本塁打は強い雨の中で打ったものだったが、東京オリンピックのために日程消化を急いでいた事情も手伝ってなんとか5回まで強行し試合成立させた結果、55号は幻になることを免れた。なお、1966年の日米野球・対ドジャース戦では走者を追い越し、本塁打が取り消しとなっている。, 本拠地であった後楽園球場で413本の本塁打を放っている。この本数は球場別通算本塁打数の中で歴代1位であり、未だに破られていない。, 打った本塁打は全て柵超え本塁打であり、ランニング本塁打は1本も打った事がない[140]。, アベレージヒッターとしての評価も高く、打率3割以上を13回達成したのは日本歴代2位の記録であり首位打者5回獲得はセ・リーグ2位の記録でもある[141]。プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本しかいない大記録である。本人はこの維持を気にかけていたらしく、引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。
Rails ǔ像 Carrierwave 31, Aa04 Âブ Ãミッターカット 12, Ȉ Âジ釣り Ŋ太 4, Ãンモックチェア Âタンド ȇ作 25, Twitter ɍ Ɂ去のツイート 7, ɇ玉 ŷ右 ɫさ Ɂう 41, ɜ格 Ȩ断 DŽ料 29, Au Ãバイルデータ通信 Áきない 6, ɧ伝 ɣ事 ĸ学生 11, Âンフォギアxd Shift ȵ動しない 11, Vscode Ãバッグ C言語 9, Âドガー Âイシー ȅ臓病 10, Âルミサッシ ĸ古 ō葉 4, ŋ物 Âタミナ Ãンキング 9, Ãォートナイト Âリエイティブ Ãイトセーバー 7, Âンデックス ō刷 Âクセル 2010 4, Ő唱指揮 ƌり方 ĸ手 5, ŏ入印紙 ʼnり印 ť約書 ŏ方 4, ĸ省堂 ȋ語 ĸ学 12, NJ ɜえる ůしい 4, Ƙ日井 Ãンツ Ŀ理 7, R ȗ本 Ãッパ不仲 9, Pubg Âイドボタン Áすすめ 7, ũ活 Ãート 3回目 Ƙ画 4, Ɩ幹線 ɫすぎる 2ch 22, Âーポート 2台 Ƣ延長 6, Googleドキュメント ȡ Ɩ線 8, Billing Zip Code Áは 4, Ãッシュ Âュニア Ť人 Ɂい 6, Huawei ɟ声アシスタント ȧ除 8, Âリバー Ȼ検 Ȳ用 6, Srs Xb21 ɟ量 6, Photoshop Vanishing Point ƛ面 10, Ãルシカ Áだ君に晴れ ļ Áる 8, S14 Âランク角センサー ƕ障 15, Ãード ň数 ňれる 12, D5300 ŋ画 Ȩ定 24,