[期間]4月18日(土)~5月6日(水・振休) [期間]開催中~5月6日(水・振休) 4月12日までは約100品種8万本のチューリップ、4月25日からはペチュニアなど約60品種が開花。, こんにちは、じゃらん編集部です。 睡蓮(スイレン)の葉と花は、水の上に浮かぶように開きます。葉に切れ込みがあるものが多いです。スイレンはヒツジグサともいいます。午後、ひつじの刻(午後2時)に花を咲かせるといういわれからつ … 春のうららかな光が注ぎ、360度の大パノラマを望む山頂が、鮮やかなつつじの帽子をかぶる。, 「こんな花びら、初めて見た♪」と珍しい品種に驚き連続!くじゅう連山や遠く阿蘇五岳を背景とした美しい自然に包まれて、春のうららかな一日を楽しんで。園内ではパンジーなど春の花々も見ごろを迎え1年で最も華やかに!, <花DATA> [本数]バラ400品種 約2600株 カーネーションの花束. こいのぼり. 『 月下睡蓮 』- 睡蓮香 2015.8.26 発売! 井上千春&喨賀の「睡蓮香」シングルcd。 アジアンテイストなリズムに、三味線・尺八・ジャンベの音色が融合した新感覚の音楽。 女性の生き方を睡蓮の花に例えた、がんばる女性への応援歌です。 季節のぬりえ 4月. 石橋文化センター 春のバラフェア2015 睡蓮 w.1733 1908 94.8×89.9 ウースター美術館 睡蓮 w.1734 1908 86×90 不明 睡蓮 w.1735 1908 100×81 不明(2015年サザビーズ出品) 花のアーチ、ジヴェルニー w.1779 1913 81×92 フェニックス美術館 バラのアーチ、ジヴェルニー w.1780 1913 81×92 不明(2017年サザビーズ出品) 端午の節句. [期間]4月18日(土)~5月6日(水・振休) 水面に揺蕩う、露を含んだ睡蓮の花、きらめく陽の光と木影の反射、風とさざなみ…、刻々と変化する表情を眺める、うっとりとしたまどろみの時間。, きりっとしたグリーンと、みずみずしいウォーターメロンのトップは、澄んだ空気を深呼吸したような気分。爽やかでクリーンな睡蓮にブルガリアローズをプラス、洗練されたミドルノートは、優しいウッディムスクへと変化します。バックにほんのりベビーパウダーの甘さを加えました。, 蓮(ハス)は花が水面より高く上がって咲き、葉も水から立ち上がり、撥水性があり、切れ込みはなく、水をかけるとコロコロと玉のようになります。花が散った後は「ハチス」とも呼ばれる、種の入った果托(カタク)ができます。根はレンコンと呼ばれ食用にします。 桃の節句のひな祭. [見頃]桜3月下旬~4月中旬、つつじ4月中旬~5月上旬、大藤4月下旬~5月上旬 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); rakuten_design="slide";rakuten_affiliateId="163bf031.42aa91e3.163bf032.7c4446ff";rakuten_items="ctsmatch";rakuten_genreId="0";rakuten_size="728x200";rakuten_target="_blank";rakuten_theme="gray";rakuten_border="off";rakuten_auto_mode="on";rakuten_genre_title="off";rakuten_recommend="on";rakuten_ts="1518241747206"; ©Copyright2020 言葉の救急箱.All Rights Reserved. 旅のプロである私たちが「ど~しても教えたい旅行ネタ」を 公園の池などでよくみける「睡蓮(スイレン)」と「蓮(ハス)」。その名はよく知っていても違いがよくわからないこの二つの花。画像を見ればその違いは一目瞭然です。, 「睡蓮」と「蓮」の違いを一目で区別するポイントは上に述べたように花の咲き方です。葉とともに水面に浮かんでいるような姿で花が咲くのは「睡蓮」。その一方で「蓮」には茎があり、花も葉も水面より高い位置にあるのが大きな特徴です。, しかし、一目でわかるこれら違いの他にも「睡蓮」と「蓮」には異なる点が数多く存在します。以下に「睡蓮」と「蓮」の違いを一覧表形式にしてまとめてみました。, 公園の池などでよく見かけその名前だけは誰もがよく知っているものの、その違いを説明するのが意外に難しい「睡蓮」と「蓮」。しかし、相違点を一覧形式でまとめてみると区別がつけやすくなったのではないでしょうか。, 最後に改めて、「睡蓮」と「蓮」の見た目の違いをまとめます。これさえ覚えておけば、次に公園の池でこれらの花を見たときに迷うことはありませんよ。. [見頃]4月下旬~5月上旬 現地で動けるお役立ちネタまで、幅広く紹介しますよ。, 【九州】一度は入っておきたい“名湯”の日帰り温泉22選!極上泉質や歴史ある湯も<2…, 【九州】紅葉を楽しむ日帰りドライブコース11選!名所の絶景とランチを満喫<2020>, 新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、各自治体により自粛要請等が行われている可能性があります。ご利用の際には、あらかじめ最新情報をご確認ください。また、感染拡大の防止に充分ご配慮いただくようお願いいたします。. [見頃]4月上旬~5月下旬 [本数]シャクナゲ約40品種6000本 [見頃]4月上旬~5月上旬 春といえば色とりどりの花が咲く気持ちの良いシーズン。そんなこの時期ならではの花絶景を編集部が厳選してご紹介します。一面パノラマの花景色に、鮮やかな色で咲き誇る花の絨毯など、その美しさには一見の価値あり。是非お出かけしてみては。 [期間]開催中~5月31日(日) [本数]つつじ約11万本 不老山 花と光のフェスタ【長崎県松浦市】 くじゅう花公園 チューリップフェスティバル【大分県竹田市】 [本数]チューリップ130品種10万本 !春のスケッチ大会や寄せ植え体験などイベントも予定。, <花DATA> みなさんにお届けします。「あっ!」と驚く地元ネタから、 日差しが弱くなると花を閉じるその姿が、あたかも眠るようなことから睡眠の「睡」の字がついて睡蓮と名付けられた。, 花が散った後の果托は蜂の巣に似ていることからハチの巣→ハチス→ハスと呼ばれるようになりました。. 色も香りもさまざま!400種のバラがいっせいに咲き誇る華やかな園内はまるでバラ図鑑。, 中国の山水画を思わせる御船山のふもとに広がる、鍋島家ゆかりの池泉回遊式庭園。今年は五百羅漢付近に新たな遊歩道が完成。春を告げる桜にはじまり、初夏のつつじ、大藤と次々に開花して、訪れるたび最高の趣きで出迎えてくれる。, <花DATA> 裏見の滝自然花苑 しゃくなげ祭り【長崎県大村市】 睡蓮って、白ばかりだと思ってたら、 赤いのもあるんですね。 遠くてこれ以上は無理でしたが・・・ こっちは白いの。 残念なことに、結構ゴミが浮いてる・・・ (誰かがポイ捨てしたようなゴミじゃないのが、救いですね。 御船山楽園 花まつり【佐賀県武雄市】 花見だんご 花見だん(full screen) 季節のぬりえ 3月. フローラル系が好きで、いろいろ試してきましたが、円やかで奥の深い、この睡蓮の美しい香りには、五感が喜びに満ち溢れそうです。トップからラストまで、存分に楽しめます。少しパウダリーな残り香にも、気品を感じます。, 初めフルーティーでべたつきのないフレッシュな香りを気持ちよく味わった後、気づけばふんわり優しく花の香りに包まれています。やがて香りは他人にはあまり分からないくらいさりげなくほのかに落ち着いてまさに自分だけが楽しむものとして続き満ち足りた気分になります。尖った個性やクセのない、かといってありきたりなわけでもない、みんなに好かれる印象的な香りだと思います。, 普段香水はつけないのでまずは10本レフィルで試してみたのですが、睡蓮がとっても癒される香りでびっくりしました。私にとっての特別な香水になりました。, トップのみずみずしい少しとろっとした甘さも好きですし、ラストの白いサラサラした優しいベビーパウダーのような甘さも大好きです!, 上品なフローラルアコードが気持ちを明るく引き立てます。「紫の上」のようにほんのりつけて。. 『睡蓮』 (すいれん、フランス語: Les Nymphéas)は、フランスの画家クロード・モネが、水生植物の睡蓮を題材に描いた一連の絵画の総称。モネの代表作の一つである。, (※文中の作品名の後に付した「w.xxxx」の番号は、モネのカタログ・レゾネ(作品総目録)の番号(ウィルデンスタイン番号)である。), クロード・モネは1870年代以降、アルジャントゥイユ、ヴェトゥイユ、ポワシー(いずれもパリ近郊のセーヌ川沿いに所在)と転居を繰り返した後、1883年からはジヴェルニー(パリから西へ直線距離で65キロ)に居を移し、ここが彼の終の棲家となる。モネがその後半生をかけて取り組んだ『睡蓮』の連作は、ジヴェルニーの自邸に造成した「水の庭」の池とそこに生育する睡蓮をモチーフに制作された[2]。, モネは、1883年のある日、列車でジヴェルニーを通りかかった(この鉄道はその後廃止されている)。アクシデントで列車がたまたま停車した場所がジヴェルニーであったとされている。当時住んでいたポワシーで絵のモチーフ探しに苦労していたモネは、ジヴェルニーが気に入り、1883年5月に同地のリンゴ農園の中にある、壁がピンク色の家を借りて転居している。彼は1890年には、それまで借りていたこの家を正式に購入した。さらに1893年にはこの家から道路(前述の廃線になった鉄道の跡)を挟んだ南側の土地1,268平方メートルを買い増し、ここに「水の庭」を造ったのである。この土地の近くには、セーヌ川の支流のエプト川に流れ込むリュ川という小川が流れているが、1893年、モネはこの小川の水を庭へ引き込むための申請をウール県知事に提出している。彼は同年からこの南側の土地に池の造成を始め、1895年にはこの池に「日本風の橋」(太鼓橋)を架けている。なお、モネはこの橋を(日本で見られるような朱塗りではなく)緑色で塗装した。モネがこの池と睡蓮をモチーフにした作品を制作し始めるのは1895年になってからである。1893年に土地を買い増ししてから、池が完成し、睡蓮が根付くまでには2年程度の期間を要したものと考えられている。池畔にはモネの作品のモチーフになった枝垂れ柳や藤が植えられ、バラのアーチも作られた[3]。, モネは1890年代に『積みわら』『ポプラ並木』『ルーアン大聖堂』などの連作を制作している。こうした連作は、同一のモチーフを反復して用いながら、季節、天候、時刻などによって微妙に移り変わる光の効果を捉えたものである。「野外制作の画家」のイメージが強いモネであるが、上記の作品群は野外で制作を開始しつつも、細かい仕上げはアトリエで行われた。『睡蓮』の制作は前述のように1895年に開始された。睡蓮をモチーフにした作品でこの年に制作されたものは3点が確認されている。このうちもっとも古い作品とみなされているのは『睡蓮の池、冬』(w.1392)だが、この作品を撮影した写真は白黒のものしか知られていない。1895年に制作された他の2点(w.1419, w.1419a)は池に架けられた日本風の橋を主モチーフとしたもので、2点の構図はほとんど同一である[4]。, 続いて、1897年から1899年にかけて描かれたとされる『睡蓮』8点がある(w.1501 - 1508)。これら8点の画面からは日本風の橋は姿を消し、池の岸の地面も描かれず、水面と睡蓮のみが描かれている。これら8点は、後に描かれた『睡蓮』の作品群に比べると、比較的写実的なタッチで描かれている。なお、8点のうちw.1503のみは画面のサイズが一回り大きいうえに、タッチも他の作品と異なっていて、制作年について異説もある[5]。, 以上の初期作に続いて制作されたのは、日本風の橋を中心モチーフとした連作である。このグループに属する作品は「第一連作」と呼ばれ、1899年に12点、1900年に6点が制作されている。1899年作の12点(w.1509 - 1520)は、池の西岸から見た橋を中心に据え、池の水面と睡蓮、岸に生える陸生の植物とそれらの水面への反映などを克明に描いたものである。これら12点は、相互にわずかな違いはあるが、いずれもほぼ同じ、左右相称の構図をとっている。これに対し、1900年作の6点(w.1628 - 1633)は、ほぼ同じ地点から橋を見て描いたものではあるが、画家の視線はやや左方にシフトしており、画面左側に描かれた岸の部分の割合が大きくなっている。1899年の作品のうち9点と1900年の作品のうち3点は、1900年11月 - 12月にパリのデュラン=リュエル画廊で開催された「クロード・モネ近作展」で公開された(この展覧会には『睡蓮』以外の作品も展示された)[6]。, その後しばらく『睡蓮』の制作は中断し、再開されるのは1903年である。この間、1901年にモネは池の拡張工事にとりかかっている。1903年から1908年にかけての時期に制作された『睡蓮』は80点が確認され、これらは「第二連作」と呼ばれる(w.1654 – 1691, 1694 - 1735)。モネはこの連作を1907年に発表するつもりでいたが、彼自身が作品の出来に納得できなかったため、展覧会の開催は1909年まで延期された。そして1909年5月 - 6月、9年前の展覧会と同じパリのデュラン=リュエル画廊で「睡蓮:水の風景連作」と題した展覧会が開かれ、1903年から1908年にかけて制作した『睡蓮』のうち48点が展示された。この時期の作品からは日本風の橋は姿を消し、水面とそこに映る虚像の樹木や空の反映、実像である睡蓮などが複雑に交錯した画面となっている。池の対岸の地面や、画面上方から垂れ下がる柳の枝などが描き込まれることもあるが、1906年以降は、ほとんどの作品において、画面のすべてを水面が占めるようになってくる。この時期に制作された80点のなかには、さらにいくつかの小シリーズがある。1907年に集中して描かれた縦長画面の連作もその一つである。これらの縦長構図の作品は15点が知られ(w.1703 - 1717)、いずれも日没直前の時間に描かれたと思われるもので、水面の右には柳、左にはポプラの樹影が映り込んでいる。15点の構図はほとんど同一だが、色調は微妙に異なっている[7]。, 1909年の『睡蓮』展を見た批評家のロジェ・マルクスは、『ガゼット・デ・ボザール』誌に寄稿し、次のようなモネの言葉を紹介している。「彼ら〔=昔の日本人〕のまれに見る趣味の良さはいつも私を魅了してきた。影によって存在を、断片によって全体を暗示するその美学に、私は共感をおぼえる」。モネは日本の浮世絵版画を愛好し、収集もしていた。日本の事物がモネの画面に直接現れることはまれだが(例外としては、着物姿のモネ夫人をモデルに描いた『ラ・ジャポネーズ』(1876年)がある)、構図のとり方、遠近法を排除した画面構成、固有色にとらわれない色使いなどには日本の版画の影響が指摘される。西洋絵画の伝統では、風景は人の視線の高さで眺められ、画中には水平線が設定されて、地上と空とを分けていた。ところが、モネの『睡蓮』連作では池の岸の地面は徐々に描かれなくなり、画面全体を水面が占めるようになる。このような作品は、描かれた画面の外にも水面が続いていることを暗示し、水面に映る虚像が、空や岸辺に生える樹木の存在を暗示する。モネの言う、「影によって存在を、断片によって全体を」暗示するという、西欧絵画の伝統とは一線を画した表現がここにはみられる[8][9]。, 1909年から1912年にかけて、『睡蓮』の制作はまたも中断している。1909年には『睡蓮』のみならず、絵画制作自体がほとんど中断していた。これにはいくつかの要因が指摘されている。晩年のモネは白内障に悩まされ続けた。彼が初めて目の不調を感じたのは1908年とされ、1912年には白内障と診断されている。1911年には2番目の妻のアリスが死去し、モネは何事も手につかないほどのショックを受けていた。また1910年1月にはセーヌ川が氾濫して流域に洪水をもたらし、モネの「水の庭」も損害をこうむった。このことも『睡蓮』の制作が中断した要因の一つと考えられている[10]。, モネは1913年に『睡蓮』連作の制作を再開するが、この年に描かれたのは、池畔にあるバラのアーチを主モチーフにしたもので、類似した構図の作品が3点知られている(w.1779 - 1781)。モネが『睡蓮』連作の制作を本格的に再開したのは翌1914年である。モネの、友人の美術評論家ギュスターヴ・ジェフロワ宛の1914年4月30日付けの書簡には、彼が自邸の地下室で旧作の『睡蓮』を「再発見」したと記されている。この「再発見」に加え、友人でフランス首相であったジョルジュ・クレマンソーから、モネの画家人生の集大成となる大作の制作を勧められたことによって、モネは『睡蓮』の制作を再開したとされている。ただし、モネは自分の人生について誇張して語る傾向があることが指摘されている。また、1913年11月に雑誌の取材のために撮影されたモネのアトリエの写真には、壁に掛けられた旧作の『睡蓮』(1897 - 1899年頃に描かれたw.1508)が写り込んでいることなどから、「制作意欲をなくしていた画家が、地下室での旧作の発見と、友人クレマンソーの励ましとによって、制作を再開した」という話には、やや誇張が含まれている可能性がある[11]。, モネは、19世紀末頃から、一つの部屋を『睡蓮』の巨大なキャンバスで埋めつくした「大装飾画」(Grande décoration)を制作する構想をもっていた。美術評論家モーリス・ギユモは、1897年8月にモネにインタビューを行い、それを翌年3月に発表しているが、このときギユモは、モネが当時制作していた、「大装飾画」の習作である大きなパネルを目にしている。このときギユモが目にしたのは、1897年頃に制作された『睡蓮』の初期作のなかでも、画面サイズの大きいw.1508のような作品であろうと推定されている。モネ自身が「大装飾画」という語を用いたことが確認できるのは、1915年にレーモン・ケクラン(当時のルーヴル友の会会長)に宛てた書簡が初出である[12]。, モネは自邸に2つのアトリエをもっていたが、1915年7月には母家の東側に、「第三のアトリエ」と呼ばれる、大画面の制作に適したアトリエを造り始めた。この時期以降に制作された『睡蓮』は、それ以前のものにくらべて画面が大型化している。すでに70歳台になっていたモネであるが、1914年から1919年の間には、画面の長辺が2メートル近い『睡蓮』67点を制作し、同時期に描かれた『アイリス』3点を含めると、計70面もの大画面を制作している(w.1782 - 1830, 1848 - 1865)[13]。, モネは『睡蓮』の大壁画を国家に寄贈しようと考え、クレマンソーに、1918年11月12日付けの書簡で、政府への仲介を依頼している。この書簡が書かれた日は、第一次世界大戦におけるドイツと連合国の休戦協定が締結された翌日であり、モネの78歳の誕生日の2日前でもあった。壁画は当初、パリのオテル・ビロン(彫刻家ロダンのアトリエ兼自邸)の敷地に新たなパビリオンを建設して、そこに展示される予定であった。しかし、建築家のルイ・ボニエが設計にあたったこの建物は結局実現することはなかった。財政難のため、1920年にフランスの議会は同パビリオン建設のための予算を否決したのである。計画倒れに終わったこのパビリオンは、直径18.5メートルの円形平面の建物で、その内壁に、横4.25メートルのパネル12枚からなる4つの壁画を飾る予定であった。壁画は円形の室内の西側・南側・東側・北側の順に『雲』(パネル3枚)、『緑の反映』(同2枚)、『アガパンサス』(同3枚)、『三本の柳』(同4枚)という題名が予定されていた。結局、壁画の設置場所は、チュイルリー公園内のオランジュリー館(現オランジュリー美術館)に変更されることとなる。1921年10月、モネはこの変更案を承諾し、1922年4月12日に国家への壁画寄贈の契約書に署名している。オランジュリー館の改修設計には建築家のカミーユ・ルフェーブルがあたった。契約当時81歳のモネは加齢に加え、視力の低下にも悩まされ、1922年9月には絵画制作が不可能なほど視力が低下していた。翌1923年には3度にわたって白内障治療のための手術を受け、同年秋には制作が再開できる程度には視力が回復した[14]。, オテル・ビロンに建設が予定されていたパビリオンが円形平面であったのに対し、オランジュリー館の展示室は楕円形のものが2室であり、モネは大幅な計画の変更を迫られた。完成したオランジュリーの壁画は、22枚のパネルで構成される8点の作品で、これらの作品の横の長さは、つなげると91メートルに及ぶ(第1室が40メートル、第2室が51メートル)。モネは1926年12月5日に死去したが、オランジュリーの壁画は彼の生前には公開されず、1927年5月17日にオランジュリー美術館が開館したときに初めて公開された[15]。, 一つの固定した視点から眺められ、遠近法によって秩序づけられた風景はオランジュリーの壁画にはない。本作品の鑑賞には、展示室内を歩きながら、視点を移動させつつ見るという身体的体験が伴う。こうした、鑑賞者が絵に囲まれ、絵の中に入り込むという発想には、日本の襖絵の影響も指摘されている[16]。, モネは、オランジュリーの壁画のために多くの習作を制作するとともに、最終的にはオランジュリーに収蔵されなかった、多くの壁画サイズの画面を制作していた。モネは生前にはこれらの「大装飾画」関連の作品群を決して手放さず、手元に置いていた。20世紀の美術界ではキュビスム、シュルレアリスム、抽象絵画などさまざまな動きがあり、モネは没後30年ほどは過去の巨匠として忘れられた存在であった。このため、「大装飾画」関連の作品群もなかなか買い手が付かず、モネ邸の第三アトリエに劣悪な環境下で保管されていた。例外的にモネの生前に手放されたのは、日本人コレクターの松方幸次郎に1921年から1922年にかけて売却された2点である。このうち、『睡蓮』は紆余曲折を経て、1959年、東京に開館した国立西洋美術館に収蔵・公開された。もう1点の『睡蓮の池』は、第二次大戦中に疎開先で大きな損傷をこうむり、長年行方不明になっていた。この作品は2016年にルーヴル美術館に保管されていたことが判明し、所有者の松方家から国立西洋美術館に寄贈された[17][18]。, 1949年にスイスのバーゼルで開催された印象派展がきっかけとなり、1950年代に入ってからモネへの再評価が高まった。画家アンドレ・マッソンはオランジュリーの『睡蓮』を、「印象派のシスティーナ礼拝堂」と呼んだ。抽象表現主義やアンフォルメル、およびそれ以降の美術家たち、具体的にはジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、サム・フランシスといった作家の作品にモネとの類似や影響が指摘されている。現実世界の再現から離れ、絵画を主観的な視覚体験の再現として、あるいは「色彩=光」の実現の場としてとらえる20世紀後半の絵画の潮流に、モネの作品は深い影響を与えた[19][20]。, 『睡蓮(イエロー・ニルヴァーナ)』 1916 - 26年、ナショナル・ギャラリー(ロンドン), モネが最晩年に制作した「睡蓮」大装飾画は、テュイルリー公園内のオランジュリー美術館に収められている。, 睡蓮の作品自体200点以上もあるため、個々の作品の市場評価は様々である。2014年5月に米国ニューヨークのオークションに出品された作品は、2,400万ドル(手数料込み2,700万ドル)の値で落札された[23]。, 作品が描かれた池がある家はモネが1883年春から暮らし、フランス北部ジヴェルニーに保存されている。描かれた庭は自然の産物でなく、モネが庭師を雇って整備した。池はセーヌ川支流と水を行き来させて濁りを防ぎ、睡蓮は増えすぎないように鉢植えとした。, 日本の高知県安芸郡北川村は、フランス側財団の許可と協力を得て睡蓮の池を再現し、2000年4月19日に「北川村モネの庭マルモッタン公園」を開設した。, 豊橋総合動植物公園(愛知県豊橋市)の「モネコーナー」には、ジヴェルニーから譲り受けた睡蓮、しだれ柳、藤が植えられている。このほかにもジヴェルニーから直接・間接的に株分けされた睡蓮が大原美術館(岡山県倉敷市)、愛知大学(名古屋キャンパス)、町立湯河原美術館(神奈川県足柄下郡湯河原町)にある。, 「睡蓮」は、それに触発された画家も多い。湯河原美術館に作品館が設けられている平松礼二は睡蓮をテーマとした作品も描き、一部はジヴェルニー印象派美術館にも所蔵されている。大原美術館には福田美蘭「モネの睡蓮」(2002年)がある[24]。, 日本画家の平松礼二は、オランジュリー美術館で見た『睡蓮』に感動して同じ題材を日本画で描くようになり、それを知ったモネ財団からジヴェルニーの苗を株分けされた。鎌倉の自宅にある鉢で増やした後、軽井沢に持つアトリエの庭に、ジヴェルニーを模して池を作って植えた[25]。, また、岐阜県関市板取にある根道神社参道脇の池が、植えられた睡蓮によりモネの絵画のように見えることから「モネの池」と呼ばれるようになり、観光地化している[26]。, 本一覧掲載作品の特定、及び各作品のデータは、安井裕雄『図説モネ「睡蓮」の世界』(創元社、2020)pp.151 - 187による。ただし、1914年以降の作品のうち、「アイリス」「柳」「藤」を主モチーフとしたもの、並びに1918年以降に描かれた「日本の橋」をモチーフとした作品は割愛し、「睡蓮」「睡蓮の池」を主モチーフとした作品に限定した。, モネ 幻の「睡蓮」発見 / ルーブル 半分欠損、修復中『読売新聞』朝刊2018年2月27日(社会面), “中国人がモネの名画「睡蓮」を2700万ドルで落札、日本のバイヤーも注目 - 中国メディア”, http://topics.jp.msn.com/world/china/article.aspx?articleid=4343166, 【こころの玉手箱】日本画家 平松礼二(1)/軽井沢に作った「睡蓮の池」モネの庭に日本の自然, モネの絵画の空間について : 「ポプラ並木」「睡蓮」の連作を中心に,水をモティーフとした作品をめぐって, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=睡蓮_(モネ)&oldid=80200865, 200.6×300.7(左), 200.7×300.9(中), 200.7×301(右), 一番上の画像は3枚組の全体図。以下の画像は上から順にw.1968、w.1969、w.1970。, 旧松方コレクション。長年所在不明で、2016年に再発見された作品。第二次世界大戦中、疎開先で画面上半を大きく損傷。左の画像は損傷前のもの。, 一番上の画像は3枚組の全体図。2番目の画像は展示状況。3番目の画像はw.1972。, 上の画像はw.1975、w.1976、w.1977の3枚を並べて撮影。下の画像はw.1975。, セルジュ・ルモワンヌ他編『大回顧展 モネ』(展覧会図録)、読売新聞東京本社発行、2007.
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